ベルセルクと日本社会のメタファー
優れたフィクションは、なぜか共感して引き込まれます。
ベルセルクという漫画もその一つで、私もこの漫画の大ファンなのですが、ベルセルクはファンタジー漫画で謎めいた出来事や物がたくさん出てくるのにリアリティーを持って迫ってくるものがあります。それがなぜなのかをベルセルクという漫画が90年代以降の日本社会そのものの巧妙なメタファーになっているという仮説からひも解いてみたいと思います。
ベヘリット(覇王の卵)とは何なのか?
ベヘリットは、ベルセルクに出てくるアイテムでそれを持っている者が何らかのきっかけで、神(魔)の使い(ゴッドハンド)を召喚し、自分の仲間を彼らに生贄として差し出すと超越的な力を得て、やりたい放題できるようになるというアイテムです。
ベヘリットは自分を慕う仲間がいる人物が必ず持っており、その仲間を生贄にささげる必要があることから、リーダーの素養を表現している物かと思います。
しかし本人はその素養に無自覚な為、ベヘリットは、目鼻口がずれた顔の形をしているのです。
そして、自分の目的と、仲間の目的が違う事=仲間は本人ではなく(リーダーである)自分の為に命を捧げ行動している事が明らかになり、かつ仲間の運命を(リーダーである)自分が左右している特別な人間だったと自覚した瞬間、顔の部品が正しい位置に移動しベヘリットが覚醒し、その力を利用しようとする神(魔)の使いが現れ、決断を迫ることになります。
↓例えばこのシーン。絶望したときにベヘリットが発動するとよく言われますが、私はそうではなく、ガッツすらもグリフィスの特別さに翻弄されつづけている人材だったことが確実になってしまい無自覚なリーダーではいられなくなってしまったからだと考えられます。グリフィスは自分がいなくなっても鷹の団に国を作る夢を追い求めてもらわないと自分がその特殊なリーダー性から仲間を戦場で死傷させてきた原因になってしまうので困るのです。(グリフィスの立場では、「千人隊長として仲間を戦場で死に導いてきたのはガッツお前だろ。今、何もできない俺を必死に助けようとするという事はお前も俺についてきてただけという事になるじゃねーか。お前責任を俺に全部押し付けるつもりか?」と思っているのです)
つまり単純化すると
ベヘリットの覚醒とは世界の中で自分が特殊な位置づけ(リーダー)にあると自覚すること → そこにより高い次元の力を持つものが現れ彼が自覚した力を利用しようと裏切りを求める → 自分を慕うものを犠牲にする → モラルを捨てる → エゴ優先=仲間への裏切りの引き換えにより超越した力の贈与
となります。
これによく似たことが90年代の日本で起こりました。
1.仲間を2.神(魔)の使いに3.生贄にして4.超越的な力を得る
1.日本国民(同胞)を2.ジャパンハンドラー(日本を手玉に取るアメリカの要人達)の言いなりになって、3.損害を与え国富をアメリカに差し出すことで4.総理という最高権力を得る
↓これがメタファーです
小泉首相は自分への高い支持率を利用して、他国に利益供与し、国民に損害を与えたのです。郵政民営化のほかにも竹中大臣とともに強引な不良債権処理を推し進めて経済をクラッシュさせ自殺者を1万人も増やしています。(異論がある方も多いのは知っていますが、、、)
※小泉竹中のご両人が自己責任論者であるのは必然です。
モラルを捨てる → エゴ優先=仲間への裏切りの引き換えにより、高い次元の力を持つ者からの力の贈与
は、90年代以降、小泉総理や竹中大臣という最高権力だけでなく、日本社会のいたるところでまるでフラクタル図形のほうな様相でミクロな階層でも繰り返し見られた現象でした。
勝ち組負け組思想がばらまかれ、仲間を騙して踏み台にして、金を稼ぎ(もしくは権力を得て)強者となってやりたい放題行う。そしてそれが社会的に称賛されてしまう。
ベルセルクでは、一般社会レベルでのこのような転生者をメタファーとして極めて醜い様態で描きだします。
なぜ日本がこのような世相になったかというと、90年代に社会や経済の変革が起こったからだと私は思っています。
(詳しくは過去の記事で記載しているとおりです)
なぜ我々はガッツに共感したのか?
ガッツはこのような化け物を人間のまま、怒りによってぶっ倒してくれる存在です。
本当は大嫌いなモラルを捨てた、裏切り者のくずどもを傷だらけになりながら始末していく。そこがこの日本社会の荒波を一般国民として乗り越えていかなければいけない私たちの共感を巻き起こすのです。
骸骨の騎士もその一人で、過去成功したけど今は現役世代に寄り添い、社会的規範(道徳)の伝道師をしている、説教じいさんという事になります。
各々の方が(道徳の啓蒙をする)尊敬できるじいさんがいると思うのですが有名どころではこんな方々のメタファーかと思います。
ガッツ一行のベヘリットは誰のものでどうなるのか?
ベヘリットがリーダーの素養のメタファーと定義するならば、ガッツ一行の中でリーダーの素養がありそれを体現しているのはガッツしかおらず、したがってベヘリットはガッツの物であるという事になります。
おそらく、仲間の誰かが身を挺してガッツを守る、もしくはガッツの目的に協力して死に瀕するような事態になった時にベヘリットが発動するものと思われます。
(現在ガッツは蝕の前のグリフィス同様、ほとんど動けない状況になりつつありこの時は近いように思います)
その時に、順当に歴史は繰り返すのであれば、ガッツは自分の目的の為に、仲間を犠牲にしてと超越的な力を得て次の骸骨の騎士(過去成功した説教じいさん)になるはずですが、ガッツが
「グリフィスを倒すという個人的な目的のために仲間を犠牲にする」ようなことは、不道徳を正してきた方のキャラクターの為、共感が得られない可能性が高く、そうはならないかと思います。
おそらくガッツは劇中で初めて、ベヘリットの誘惑を断るキャラクターになると考えられます。
ベルセルク=日本社会のメタファー説から最終回を予測する
ベルセルクが日本社会のメタファーであるならば、その最終回はどのようになるのでしょう。
おそらくハッピーエンドとなるならば、人々の絆や道徳規範の復活が垣間見られるような終わり方になるかと思います。
(具体的な予測は製作者の方々に怒られるかもしれないのでやっぱり書くのをやめましたw)