1998年問題とデフレ不況を作った犯人①
日本の民間部門に対する銀行の信用創造残高の対GDP比↓のこの現象
ちなみにアメリカは信用創造残高は右肩上がり。
や、↓この現象 (デフレ不況と失われた20年)を起こしたのは誰か、なぜ起こったかについて調べるのが、暇な時の趣味になってます。
失われた20年の根幹原因は銀行の信用創造の力の抑圧だと私は思っていて、
緊縮・増税・内部留保・株主資本主義・少子化等は、その(日本の銀行の機能停止の)結果だと思っています。
同様の主張をされている専門家も非常に少ないがいらっしゃいます。
https://www.u-bunkyo.ac.jp/center/library/image/ba2001_eiron85-112.pdf
https://www.u-bunkyo.ac.jp/center/library/image/KIKUCHI_76.pdf
BIS規制は、確かに日本の銀行に足かせを嵌めたと思いますが、同様の信用収縮や、GDPの停滞は諸外国では起こっていないため、何か日本だけBIS規制導入時におかしなことをしたのではないかと想像されます。
アメリカではBIS規制を逃れる手法が確立され、それが金融工学というジャンルを作ったことからも各国のBIS規制に対する対応方法は、様々だったようです。
↓日本だけ1998年を境に名目GDPと実質GDPが逆転する異様な現象
※日本の銀行だけBIS規制耐性が弱かった可能性もありますが、最初の図のように信用創造が一気に下げる意味が分からないですし、その副作用は苛烈だったのは容易に想像がつきます。なぜ最初の図のようなハードランディング路線を取ったのでしょうか?
1998年にどんな政策がなされ銀行は信用収縮という選択肢を足らざるを得なくなったのか?
急激な信用収縮、不良債権処理や、貸し渋り貸しはがしに至る経緯が下記の書籍に記載されていました。
つまり大蔵省が、護送船団方式をやめて、自己責任論を銀行に押し付け、金融ビッグバンに傾倒したことが格付けの低下を招き、株価を下げ、株価低下によりBIS規制の基準を下回る可能性が出てきたので信用収縮を行ったという流れのようです。(なぜこの時、株価を引き上げる政策をとらなかったのでしょうか? これも気になります)
しかし下記の金融ビッグバン関連の資料をみると、大蔵省はむしろ反対していたようにも見え上記の内容と矛盾します。
※当初は反対していたが、何らかの力によって反対できなくなって銀行に押し付けたのかもしれません。
このやり取りで言及され、かなり大きな拒否反応を引き起こしている資料は何なのでしょう?探してみると下記であるのではないかと思われます。
1996年のこの資料は読んでみると2000年代に実施された痛みを伴う改革のかなりの部分の原則が出てくる資料なので驚かされます。
→構造改革しても金融産業にイノベーションなんて起こらなかった
この報告書を書いた、金融ワーキンググループ はわずか3名のグループでこの3名の提言が、巨額の信用収縮を引き起こし、日本経済をぶっ壊して、その後の失われた20年を作ったとしたら驚くべき罪を犯したことになります。
金融ワーキンググループとは何者か
池尾 和人、柳島 佑吉、岩田 一政 この3名は何者なのでしょう?
なぜこのような政策を提言して、その政策のアイデアはどこから来たのか、さらに調べて第2回目を書きたいと思います。
https://note.com/tk36000/n/n85fb8552d9d2