句:身体化された認知
〈身体化された認知〉とは、認知科学における理論のひとつ。
認知や心理に関する古典的な考えに〈心身二元論〉がある。これは大まかに言うと、
心と身体は別物で互いに独立している
認知は心の作用だ
だから認知と身体は無関係だ
――というガバガバな理屈のこと。
〈身体化された認知〉は〈心身二元論〉を否定する。つまり『身体も影響してるぞ』という指摘だ。身体の影響を受けて成立した認知のことを〈身体化された認知〉という。
用語としては『The Embodied Mind』が初出と思われるが、こんな学術書に頼るまでもなく、経験的に広く知られている現象でもある。
フィギュアスケートのジャンプで何回転したのか、元選手は一瞬で見抜く。素人にはスローでも難しい。
バレーボールの同時攻撃がどうやってブロックを躱すのか、どんなフェイントと先読みがあったのか、元選手は的確に拾い上げる。素人にはわけが分からない。
彼ら(元選手)が見ている競技の様子そのものは、観察者の個人差とは無関係な客観的事象のはずだ。
同じものを観ている。なのに違う情報を読み取れる。これは何故か?
彼らの目や耳が赤外線や超音波を捉えているわけではない。知覚として受け取れる情報は素人とさして変わらない。
だから差が生まれるのはその先。同じ知覚情報から異なる認知を組み上げる/汲み上げるナニカが存在している。
〈身体化された認知〉理論によれば、そのナニカとは身体的な経験の差であるという。
本稿では、筆者自身のやや特殊な(健常者が体験しにくい)身体性を例にとって、身体化された認知が食い違う事例を紹介したい。
※前置き※
本稿の主題は、障害や差別などではなく異文化コミュニケーションだと思っている。車椅子生活で困る事の一部が理解されにくいからといって、全て理解して欲しいとは求めないし、健常者を貶すつもりも責めるつもりもない。
それは仕方のないことだ。筆者だって他の障害者などの困難を分かっているとはとても言えない。
◆動作の解釈&予測クイズ
一旦『身体化された認知』を脇に置いて、次のようなクイズを考えてみよう。
ある人物が映ったごく短い(ほんの数秒の)動画を観て、『その人が何をしているか』『このあと何をしそうか』を答えるものとする。誤答を誘うような意地悪な映像ではなく、生活の一部を切り取ったようなものを想像してほしい。
この問いの正答率/難易度は、被写体と回答者の文化的な近さに大きく依存する。
○納豆を混ぜている様子
回答者が日本の食文化を知らなければ正答は期待できない。下手をすると食事風景だと分かって貰えないかも。
類例として、『豆を挽いている様子』から『飲み物を支度しているのだ』と解釈しない文化もあるだろう。コーヒーを知らなければ『何か薬を作ってる?』などと思う可能性あり。
○身支度の様子
化粧をする習慣の無い人からすれば、『ファンデーションの次に何を始めるか』などは正しく予測できないだろう。何か筆状のものを手に取ったとして、それを眉にやるのか唇にやるのかさえろくに分からない。
特にビューラーなど、前提知識抜きに道具単体でみると用途すら誤解しそうになる。特殊な鉗子だと教えられたら騙される医学生もいるのでは?
○スポーツの中の一瞬
同じスポーツを経験した回答者であれば、かなり高い精度の予測を挙げられる。
何らかの事故で怪我をする映像の場合、その瞬間が写っていなくても経験者は『危ない!』と先読みが働きやすい。
大まかな定義めいたもの
上のようなクイズの正答率を何らかのトレーニングで高めたい場合、食文化や化粧の例ならば座学でも一部は教えられるだろう。
しかしスポーツの例は、そのスポーツなりの身体の使い方を体得しなければ一瞬の動きからの予測精度は高められない。このような、言語化が難しい身体知を前提とするようなものを『身体化された認知』という。
(『納豆を混ぜ終わった後、糸を切るために箸を回す』とか、『淹れたてのコーヒーを口元に持ってきた時、思わずじっくりと薫りを楽しむ』ような動きを予測するのは座学では不可能だろうから、スポーツだけが身体化された認知というわけではない)
◆車椅子生活の身体性:下り坂
筆者は日常的に車椅子で生活しており、その点では健脚者(※脚で不自由なく歩ける人)とは異なる身体性が身についている。
そのことが齟齬になって、周りにいる健脚者に『危ない!』と感じさせてしまうことがある。次のような状況だ。
下り坂。当然、車椅子は下方に向けて加速する。
そのことは車椅子に乗ったことが無い人でも予測できる。だから搭乗者に対して減速を期待するだろう。
そこで逆に加速したら『危ない!』となる。
分かる。そう感じるのも無理はない。
搭乗者の手が前方へ動いているから加速に見えるのだろう。
が、上の画像は加速している様子ではないのだ。むしろ減速している。これが安全な進み方だ――そのように見えないだけで。
誤解の原因
○構造上の仕様
車椅子に乗ると、両手の近くにレバーが来る。これを引くと(または押すと)それぞれの車輪が回らないよう固定される。
但しこれは減速には使わない。
手元のレバーは〈駐車ブレーキ〉――つまり停止状態を維持するものだ(個人的にはブレーキではなくストッパーと呼びたい)。動いている状態で減速する〈制動ブレーキ〉ではない。
制動に使えば使えないことはないが、金属を押し当てるだけなのであっという間にタイヤが削れてしまう(緊急時ならやるが)。
では制動ブレーキはどこにあるのか?
搭乗者自身の腕で自走する場合、搭乗者の両腕がソレである。……冗談に聞こえるかも知れないが大真面目に。
(機構としてドラム式やディスク式の制動ブレーキが付いている車椅子も少なくないが、あるとしても介助者が操作するようにできているので、搭乗者には通常使えない)
(自身の腕で制動できない人は自走もできないので、乗るとしたら介助用)
○操作上の実際
車椅子で下り坂を進む時は、両側のハンドリムをしっかりと掴む。腕の力で直接、ホイールの回転に制動をかけるのだ。
とはいえその際、腕を完全に固定すると車椅子は止まる。減速ではなく止まってしまう。つまり、腕をゆっくり前へ進めることになる。加速しようとする重力に抗いながら。
それが周りからはこう見えるわけだ。
〇物理現象
搭乗者の手は、リムを通して車輪に後向きの力$${V_B}$$を加えている。ただしそれは重力による前方への加速度$${V_F}$$よりも小さい。
$${V_B}$$:搭乗者の腕による後向きの力
$${V_F}$$:重力による前向きの力
$${V_B<V_F}$$
差し引きで車輪は前に回るし手も前方へ動く。ただしその合成ベクトル$${V}$$は、$${V_F}$$よりも明らかに小さい(=減速している)。
$${V=V_F−V_B}$$
このような力は、観察者の認識や予測とは無関係な客体として存在している。
身体を通した認知
○他者から見える情報
目に見える運動は合成ベクトル$${V}$$だけで、差し引きで消えた$${V_B}$$や本来の速度$${V_F}$$は観察できない。この点は誰にとっても共通だ。
○観察者ごとの状況認知・予測
『その人が何をしているか』『このあと何をしそうか』といった予測は、観察した情報から観察者が構成する認知に基づくことになる。つまり同じ現象を観察しても人によって異なる予測ができあがる。
具体的には、
情報:リムを掴んでいる腕が前方に動いている
だから加速しているのだろう
情報:上体が背もたれについたまま離れない
だから減速しているのだろう
このように相反する予測が、同じ現象・同じ観察から導かれ得るわけだ(後者:回答者が車椅子生活者の場合)。
今回の例では前者が誤りで後者が正しいが、予測の正誤は主題ではない。逆に車椅子生活者だからこそ誤解するようなケースも何かしらあるだろうし。
強調したいのは、車椅子にせよスポーツにせよ、身体的な経験が状況の評価や予測に影響を及ぼすということ。しかも前者の間違った予測も、前提になった情報は間違っていない。
すなわち、加速に見えるのは『車椅子に馴染みのない身体』を通して身体化された認知であり、減速だと分かるのは『車椅子生活に慣れた身体』を通して身体化された認知と言える。
どちらが正しいとかではなく、ただ異なっている。違う文化で育ってきた異邦人のようなものだ。お互いがそれを踏まえればコミュニケーションは充分に可能だろうと筆者は考える。
◆車椅子生活の身体性:他
上で挙げたような健脚者との認知のズレは、数え上げればキリが無い。幾つか簡単に挙げておこう。
○は比較的共通の認知を持てる点で、△は認知がズレ易いところだ(すべて個人の体験と感想)。
傾斜について
○:平らな道が好ましい。
○:縦断勾配(前後で高さが違う傾斜)、特に上り坂は嬉しくない。
△:それ以上に横断勾配(左右で高さが違う傾斜)が
心の底から憎いつらい。
低い方へ進路が曲がってしまい非常に進みづらい。上り坂の方がまだマシ。
市街地の歩道は、車が駐車場などへ入るための乗入れ部まわりで路面が歪んでいることがほとんどなので疲れる(許されるなら車道に降りて進みたいことも少なくない)。
待合室や電車の車内
○:人の邪魔にならないよう居場所に気を使う。
△:位置だけでなく向きもかなり気にしている。足置き(搭乗者の爪先)近くは通行人が躓きやすいため、通路の方を向いていたくない。
横向きは横向きで幅を占めてしまうし、好きに方向転換できるとも限らないので悩ましいが。
進む速さ
(前提)次の条件が揃っているとする。
搭乗者が下肢以外は健康。
平らで硬い床面。
自然に漕いで進む。
△:個人差はあるが、車椅子にとって楽な速度は多くの健脚者の日常歩行よりも速い。意図的に徐行しないと歩行者とはペースが合わない。
△:周囲からは急ぎ過ぎの危険走行に見えても、搭乗者的にはただ楽で自然な前進という可能性がある。
○:重心が低く・総重量が大きく・速度の乗った・金属の塊=危険。仮に接触がなくても恐怖感を与えやすい。よほど開けた障害物のない場所は例外として、原則的に『漕ぎやすい速度』は出すべきではない。
実際にそんな速度を出す機会は多くない。だから余計に、一般にイメージされる車椅子の速度は実態より遅いものに留まっている印象がある。
◆まとめ
身体化された認知とは、〈見聞きした情報〉を〈その人の身体的な経験〉で解釈して出来上がる認知のこと。
意識しない限りは当たり前の(感覚的な)常識のようなもので、その認知が成り立った背景を言語化することは難しい。
仮に言語化できても、同じ体験をした人でなければ正しく理解できない可能性が高い。
そこにはディスコミュニケーションが生じやすいが、決して分かり合えないなどということもない。多分。
自由や多様性が制限されるような国なら、マジョリティが体験することはかなりの部分で似通ってくるため、身体化された認知が食い違うシーンも少ないだろう。
逆に国際化やダイバーシティが進むほど、車椅子生活者のように身体性を共有できない他者と接する機会が増えるため、身体化された認知が噛み合わず摩擦が生じるだろう。
多様性社会において必要になるのは、『自身の常識が通じない相手は普通に存在しており、その人達は間違っているのでも劣っているのでもなく異なっているだけなのだ』との認識ではないだろうか。
◇補足
身体化された認知を生み出しているかも知れない細胞が、大脳神経学の知見において見つかっている。
今のところ、両者が結びつく証拠は無いけれども、仮説のひとつとしてはそれなりに有力と考えている。
以上