“身体的性”は生物学的ではない
本稿では、“身体的性”とか“からだの性”と呼ばれる概念のあやふやさについて述べる。
これは学術語というより日常語であって、はっきりした定義があるとは言い難い。しかしおおむね次のような特徴が期待されているようだ。
人の心理的側面を除いた物質的側面
男女の2通りでありそれ以外はない
法律上の扱い・習慣に基づく規範・個人の主観といった語りには左右されない
物質的・外在的な要素だけから客観的に区分できる
しばしば“生物学的性”とも説明される
しかしこの概念は、そう語られることに反して、以下のことを指摘できる。
物質的・客観的な要素で区分することはできるが、そこには『生殖機能以外の判断材料』も含まれる
『なぜ“生殖機能以外”にその判断材料を含めるか』については生物学的な根拠が無い
その点で、人間の習俗や主観に基づく社会的構築である
すなわち、
$${身体的性 ≠ 生物学的性}$$
である。本稿ではこのことを明らかにしていく。
◆長めの前置き
筆者はこのことを、あまりおおっぴらに語るべきではないと考えていた。
○公言すべきでない理由(1)
生物学的に性を捉えると、必然的に生殖機能を基準にすることになる。
この基準を厳格に──人の主観や感情を交えずに──適用すると、『オスともメスとも言い切れない個体』が出てきてしまう。生物学的性はバイナリではない(後述)。
これを改めて指摘することは、何らかの原因で──事情は問わない──〈自らの遺伝的子供を持つことが難しい人〉にとってはかなり不愉快だろう。その人たちが何か批判されるべきことをした/怠ったわけではない。にも関わらず本稿の内容はその人たちを傷つける可能性が高い。
だから公に語るのは難しいと思っていた。
○公言すべきでない理由(2)
身体的性という社会的構築を解体してしまおうとする動きがある。例えば包括的性教育がその1つだ。
どういったものかはここでは割愛するが、筆者は包括的性教育に反対している。
但しそれは『身体的性という社会的構築を大筋では維持すべき』というスタンス。
一方、包括的性教育に反対する声には『身体的性は社会的構築ではない。生物学的・物質的・客観的なものだ』『だから解体などできない』といった理路がしばしば見られる。
これは単純に事実に反する(後述)のだが……『身体的性は社会的構築だ』と指摘することは、包括的性教育の推進側を利する(ものと誤解される)おそれがあった。
そうなる位なら、包括的性教育に反対という点では同じ意見なのだから、敢えて指摘することもないだろうと考えていたわけだ。
──しかし。
○こうして公言する理由
きっかけは、カンザス州が法的に男女を定義したことにある。
男女の性は、過去の長い期間にわたって自明のものと考えられてきたためか、法令などで明文化はされていなかった。
医学ないし産科学においては普遍的な基準も定められたが、日常の感覚ではあいまいなグレーゾーンを残したまま、これまでやってきたわけだ。
しかしその結果、女性スペースの安全性や女性スポーツの独立性が現に侵害を受けている。
カンザスの女性権利憲章はそれに抵抗し、女性を護るためのものと理解できる。
その本文は次のページから入手できるのだが……
ここに定められた男女の定義は、生物学的で、生殖機能を基準としており、バイナリではない。
この基準を文字通りに当てはめると、『男女のどちらにも当てはまらない人』が出てきてしまうのだ。
『女性スペースの安全を護るため』というと、まるで伝統的な価値観を明文化する保守的な立場にも感じられるが、とんでもない。
(善し悪しは別として)これは大きな転換である。
繰り返すが、これまでの“身体的性”概念はあやふやな部分を残す社会的構築だった。そのあやふやさ──生殖機能の有無だけで切り分けない部分──によって、〈身体的に子供を持つことが難しい人〉も男女のどちらかに包摂できていたのだ。
カンザス女性憲章はそのグレーゾーンを捨てようと言うのである。『男女のどちらにも含まれない人』の公衆トイレやスポーツに参加する権利に言及しないまま。
女性の安全を護ることには賛成する。
そのために男女を定義することは有効かも知れない。
しかしカンザスの女性憲章は定義に大穴が空いており、文言を見直すべきと考える。
長くなったが前置きは以上だ。
◆本題
○生物学的ではない
まずは『生物学的』に生物の性を検討する。生物学という以上、その対象はヒトに限られない。あらゆる生物だ。
ここでは性別の話題なので有性生殖をするものだけ考えれば良いが。
身近なところでミツバチを例に取ろう。
ミツバチの個体を、その生殖機能に基づいて分類する──と、少なくとも3つのグループができる。
女王バチ・雄バチ・働きバチだ。
働きバチは普通メスに分類されるが、それは性染色体がXXであるというだけで、働きバチに生殖機能は無い。
もし働きバチを女王バチと同じカテゴリに入れるとすれば、その区分は生殖機能以外にも何らかの要因に基づいている。
このように、生物学の観点から言えば、『ある生物の全個体が2通りの性別に区分されるべき』と考える理由は特に無い。ミツバチはひとつの例に過ぎず、オスメスの2通りに分けられない種などいくらでも挙げられるのだから。
むしろ、『この生物を生殖機能に基づいて区分すればオスとメスの2パターンしかない』と“生物学的に”宣言してしまえば、『そのどちらにも当てはまらない個体は“畸形”である』ことになってしまう。
ヒトに当てはめるには極めて危険な考えだと感じるのではないだろうか。
感じるようであれば、ヒトの“身体的性”概念には生物学以外の何かが混じっているということだ。
○生物学以外の何か
現に今の社会は、公衆トイレにせよスポーツにせよ男女の2つに分かれている。『男でも女でもない人/どちらでもある人は居ない』というのが伝統的な“身体的性別”観だ。
このバイナリな性別観は『生殖機能のみに基づいた客観的な区分』ではない。このような観念が一般化した背景には様々な要因を指摘できるが、なんであれ社会的構築ではある。
その事実を歪めるべきではないと考える。
誤解なきよう願いたいが、『“男”や“女”といったものが実在しない』などとは言っていない。それらは確かに居る。
ただしその実体を生殖機能のみに求めれば必ず“それ以外”が出てくるので、『“それ以外”など居ない』ことにしている現状は拡張された定義に則っており、そのように操作された定義は“客観的”でも“生物学的”でもない、と言っている。
そしてそのことは何ら問題ではないのだ、と。
○良き社会的構築を目指そう
“身体的性”は社会的構築だ。誤魔化しても仕方がないし、そもそも社会的構築であることは悪いことでもなんでもない。
確かに社会的構築の中には解体されるべきもの──特定人種に対する偏見など──もあるが、何でもかんでも解体しようとするのは明らかに間違っているからだ。
だって、例えば“人権”の概念がある。
これも社会的構築に他ならない。解体すべきでないことは自明だ(※)。
このことから、“身体的性”が社会的構築だと認めても問題にはならない。社会的構築だから解体されるのではなく、誰かを苦しめる構造こそが解体されるべきもののはずだ。
※自明ではないと考えることもできなくはないが、余計にややこしくなるので割愛する。
では我々は、ないしカンザスは、“身体的性”をいかに構築すべきだろうか。
生殖機能のみに基づけば、それは社会的構築ではなく客観的な基準かも知れないが、不妊や性分化疾患群に悩む人達を傷つける構造になる。
そうはならないような、しかし女性の安全や権利を護れるような、そういった構築が理想的なのだが──
……どう定義するのが最善か、残念ながら筆者は答えを持っていない。少なくとも短く明文化できていない。
ただ『“身体的性”=生物学的』とする誤りを放置しておくことは──ただそう誤解されるだけならまだしも、法にまで含まれるとなると──大きな問題になるのではないかと懸念するものである。
包括的性教育やTGismの侵襲は確かに悩ましいが、それを防ごうとするあまりに、生殖機能不全に悩む人に対する新たな差別を産みはしないか、という点で。
以上
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