未証明の“自称”学問

 『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書/阿部幸大』を読んだ。
 本書にあるテクニックは、アカデミックなものに限らず様々なライティングに応用可能であると考える。文章をより説得的にするために有用だろう。

 筆者にはこのテクニックが学問の世界で通用するかどうか判定できないが、著者の阿部幸大氏は現に多くの論文を書いて評価を受けているし(リンク)、SNS等を見ても学者・研究者からの評判は悪くないように思える。
 ひとまずここでは、『本書の内容は人文学の世界でも通用する』ことを前提に話を進めたい。

 このnoteの主題は『この本のやり方がまかり通る業界は“学問”と呼びうるだろうか(無理ではないか)』である。


■1:人文学の目的と方法

 本書の結び(9章・10章)は『なぜ論文を書くのか/論文を書いてどうするのか』に割かれている。8章までで説明される諸テクニックは学界のお作法に則ったもので、これに沿えば学界では評価されるかも知れないが、そこで評価されること自体にどんな価値があるかと問うセクションだ。

 阿部氏の研究者としてのキャリアは作品論と呼ばれるジャンルからスタートしている。本人の説明を引用しておこう。

ある一冊の小説を選び、その作品を丁寧に読んで分析するというものだった。たとえば村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を戦争というテーマで論じます、といったもの

『まったく新しい〜』P.133

 このような論文に対し文学の世界の外から向けられる疑問について、阿部氏は自覚的だ。

そんなもの、その作品を論じることに興味をもつ文学研究者以外、いったいどこの誰にどんな貢献をもたらすというのだろう。〔…〕これはごく狭い研究者のサークル内でのみ共有されたルールにおいて解釈の巧拙を競うだけの、いわばゲームではないのか。〔…〕そのゲームをうまくプレイできることがすなわち研究者としての自分の価値の証左であると錯覚しているのではなかろうか

『まったく新しい〜』P.134-135

 つまり『なぜ論文を書くのか/論文を書いてどうするのか』、もっとカジュアルにいえば『そんなもの何の役に立つのか』である。

◇1-1:人文学の目的

 阿部氏は業界のトップジャーナルとされる学術誌の掲載基準を参考にしつつ、“人文学の究極目的”として次のようなものを挙げている。

  • 社会変革

  • 暴力の否定

  • 世界をよりよくすること(悪くなくすること)

 ……本当にそう書いてある(P.138-139)。
 あまりに堂々とした言明に驚いてしまった。

 もっとも、目的が先行していると思しき例には心当たりがある。人文学の枠組みからは外れてしまい少し脇道に逸れることになるが、それらをご紹介したい。

◯例a
 社会学者の牟田和恵氏は、献血を求めるために漫画作品とコラボしたキャンペーンのポスターを、女性差別撤廃条約にある「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」ものだとして批判した。

「見る人が不快に思う」からダメという言う話ではない。当然、不快に思う人もいるだろうが、重点を置くべきはそこではない。女性の性が断片化され、人格から切り離されたモノと扱われることが、女性蔑視・女性差別だから問題なのだ。

「宇崎ちゃん」献血ポスターはなぜ問題か - gendai.media

◯例b
 同じく社会学者の小宮友根氏は、日本で見られる様々な表現が「累積的な抑圧体験」を与えるとして批判した。

差別的な女性観を当然の前提としている表象は、それによって「女性とはそういうものだ」という意味づけを繰り返してしまっているがゆえに「悪い」のです。

「性的な女性表象」の何が問題なのか - gendai.media

 これらの例は阿部氏のいう『暴力の否定』なのだろう。筆者の主観ではあるが、牟田氏も小宮氏も悪意に基づいて誰かを攻撃しているという意識ではなさそうだった。社会を良くしたいという方向に思われる。

 個人の主観や価値観としての表明ならば、それは思想信条や言論の自由であって批判には当たらない。しかし彼らは学問という看板で普遍﹅﹅的な﹅﹅悪影響があると述べている。
 ならば当然こう問わねばならない。『本当に?』と。

 学問・学術を定義するのは難しいが、『なんとなく●●であると感じられる』だけのものは明らかに非科学だ。『●●である、何故なら■■だから』という根拠は最低限必要だろう。
 上の例で言えば、批判対象となった表現は本当﹅﹅女性差別を助長ないし強化するのか。そう感じられるだけでなく、きちんと根拠があるのか。

 社会学者たちはもちろん根拠を持っているだろう。こちらについては後述する。
 まず人文学は、どんな根拠で『本当だ』と主張するのか。

◇1-2:人文学の方法

 阿部氏の『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』によれば、それは論証である。
 証ではなく、証。

 論証とはどういうことか、『まったく新しい〜』の前半部『原理編』をなぞっておこう。
 本書では(人文学の)論文を次のように特徴づけている。

論文とは、ある主張を提示し、その主張が正しいことを論証する文章である

『まったく新しい〜』P.15

 この“主張”は論文に欠かせない重要な要素ということで『アーギュメント』という用語をあてられ、明確な定義が与えられる。

〔アーギュメントとは〕論文の核となる主張内容を一文で表したテーゼである。ここでは「テーゼ」を「論証が必要な主張」というふうに定義しておく

『まったく新しい〜』P.16

 論証が必要な主張とは、言い換えれば“論証なしには納得してもらえない主張”(P.19)であるという。
  つまりアーギュメントとは、その一文だけで見れば“大きな飛躍をともなう”(P.46)ものであり、『本当にそうなのか?』と反問されるような主張ということだ。

 本書の前半では次の例をアーギュメントとして挙げている(形式を論じている部分での例なので、内容の真否は重要ではない)。

『アンパンマン』においては、男性中心主義的な物語が女性キャラクターを排除している。

『まったく新しい〜』P.24

 この一文だけを読んで『なるほど確かにそうですね』と納得できる人は少なそうだ。『本当にそうか?』とか『もうちょっと説明して』といった反応を想定すべき、飛躍含みの主張だろう(そうでなければアーギュメントではないと本書は定義している)。

 さて、この飛躍はもちろん埋めなければならない。『本当に間違いなくそうなのだ』と言えるだけの根拠が必要だ。
 問題は──筆者が冒頭で『“学問”と呼べないのでは』と疑った理由は──飛躍を埋める方法である。
 本書は『論証を重ねることで飛躍を埋める』としている。

論文とは、イントロで飛躍したアーギュメントを提示し、本文の論理的なパラグラフでその飛躍を埋める文章である。〔…〕飛躍は、ひとつのパラグラフでは埋まらない。〔…〕これが人文系の論文が長い文章であることの本質的な理由なのだ。それはアーギュメントが大きな飛躍をともなうからなのである。まさしく「論理の飛躍」を論理によってなだらかに「ならす」ために、たくさんのパラグラフが必要になるのだ。

『まったく新しい〜』P.46
『まったく新しい〜』P.47より

 すなわち、本書のテクニックを活かして書かれた文章は、読者に次のような反応を引き起こす(ことを目指す)。

アーギュメントの一文だけでは大きな飛躍があって納得できなかったけれども(上図左側)、本文の論理を追いかけていく内に飛躍が無くなり納得できた(上図右側)

読者に期待する反応

 それだけ﹅﹅である。読者に納得感を与える
 アーギュメントの内容を真だと証明してはいないし、証明を試みてもいない。少なくとも『まったく新しい〜』はそれで良いと言っている。

 筆者はこれを過信と考える──論理と論証への過信、もしくはそれを評価する人の認知機能への過信だと。

■2:論証<実証

◇2-1:自然科学の場合

 対比として、2つほど自然科学の話をしたい。

◯例c
 最初の例は生物学だ。
 ある新種の生物が発見されたと仮定しよう(個体ではなく群れが見つかったとする)。

 その生物の形態や生態を克明に記録することが、生物学者の最初の仕事になる。手足や指の本数、爪の有無や向き、骨格、被毛、雌雄の差など、観察すべきことは多い。
 これらは事実ファクトである。発見された新種と生物学に対して真摯でさえあれば、誰が書き留めても同じような記述になる。解釈という主観の入らない客観情報だ。

 こうした事実ファクトに対し、生物学的な考察を加えることは可能だ。被毛や皮下脂肪が厚いという特徴があれば『恐らくこの生物は寒い地域に暮らしている』とか。事実に主観を混ぜ込んだものを解釈(※)と呼ぶ。
 もし発見された土地が特に寒くないなら『こんな生き物が寒くもない土地に住んでいるのは何故か?』などの疑問にも繋がるだろう。

 ただし、自然科学が重視するのは解釈よりも事実である。『こんな生き物が寒くもない土地に住んでいるはずがない』などと主張するならば──そのように感じることは理解できるが──事実を否定するものを生物学とは呼べまい。

(※更に細かく分ける場合は記述ディスクリプション観察オブザベーションといった語も使われるが、文章の分析や評価は本題ではないので省略し、以下では“解釈”を用いる)

◯例d
 今度は物理学を例に、あえて極端な(現実離れした)仮定を挙げる。

 ある科学者が『永久機関を発明した』と発表し、その造り方を詳細に公開した。
 恐らく多くの物理学者たちは鼻で笑うだろう。しかしその発表通りに作った装置からはエネルギーを取り出せてしまった。理屈は分からないのに何故か豆電球が光る──もちろん電池などは内蔵していない。

 物理学の常識でいえば、外部からエネルギーが供給されているはずだ。たとえば光を電気に変えているとか。だとすれば暗闇に放置すれば電球は消えると考えられる。
 そうした外部供給源となりうるもの(光など)を片っ端から遮断していって、それでも電球が灯り続けるとしたら……そういう前提なら、物理学の常識は折れるしかない。『エネルギー保存則には例外があった』として部分修正を加えることになるだろう。

 このことは物理学者にとって非常に納得しがたいと思われるが、そのような心証はどうでも良い。この仮定においては、電球が灯り続ける事実こそが真であって『永久機関など実在するわけがない』という主張は事実を無視した非科学である。


 このように、自然科学は解釈よりも事実を──論証よりも実証を──重視する。

◇2-2:失敗例

 なぜ実証を重んじるのか。
 それは人の主観や解釈による間違いを排除するためだ。今度は失敗例を2つ挙げよう──架空のものではない、実際の例を。

◯例e
 近代経済学(ここではジェレミ・ベンサム以降の、19世紀半ば以降の経済学)には、ひとつの前提がある。『経済的な生産・消費行動は、一定の合理性に基づいて選択されるはずだ』という。

 確かに貨幣の価値は普遍的で、誰もが欲しがるものだしドブに捨てたい者はいないだろう。ということは(論証1段目)、人がモノやサービスを売り買いする時にはその人なりの金勘定が働くはずだ。ということは(論証2段目)、ということは(論証3段目)……このような論証を重ねていけば、納得しやすいもっともらしい論によって、上の前提が導かれる(→経済人)。以降の経済学は、特に消費者の行動については、各個の合理性を前提に発展してきた。
 ……誤った前提の上に。

 実際の人間はそんな風に行動しない。金勘定もしないではないが、それ以上に判断を左右する要因が色々とある。
 ダニエル・カーネマンとバーノン・スミスはそのことを証した。実験経済学または行動経済学と呼ばれるもので、2002年にノーベル経済学賞を受賞している。この実証実験は他の研究者も追試して、類似の結果が得られたという。

(実験経済学以前から、消費者の選択が“経済人”のそれと一致しないことは知られていた。しかし主に『不合理な選択をすることある』などの形で合理性に制約を加える方向の研究だった。対してカーネマンらが指摘したのは『その人の知能や学歴などに関わらず、一般的な状況では合理的な選択をしない』という統計的傾向である)

◯例f
 数学の世界で有名なものにモンティ・ホール問題がある。あるゲームの勝率についての問いで、数学的な最適解(最も勝率の高い選択)ははっきりしているのだが、その解は多くの人にとって奇妙に感じられる。
 正しい解説が雑誌に載ったところ、『間違った解説を載せるな』という抗議が1万通以上も届いたという。そこには博士号保持者からのものも1000通近くあったとか。

 学術的な思考に慣れた抗議者たちは様々な言葉を以て自らの正しさを“証明”しようとした。それらの多くは読者に対して説得的で、つまりもっともらしく感じられる証だ。
 結論としては抗議の方が間違っていたのだが。

 これは『客観的事実とは完全に反する主張が、論理の積み重ねによって、専門家にすらもっともらしく見えてしまった実例』である。


 我々はこれらの例から学ぶべきだ。どれほどのもっともらしさも、その論の正しさを証明しない。むしろ人の認知機能は論証の積み重ねのようなものに騙され易い。

 だから『論証よりも実証』となる。
 ここでいう実証とは“読者の納得など必要としない事実”のことだ。

 生物学の例に戻って言うなら、『この生物は寒冷地に住んでいるはずだ、なぜなら被毛や脂肪が厚く寒さに適応しているから』という論証よりも『この生物は現に温暖地に住んでいる』という実証の方が間違いが無い。
 発見当時の常識からは信じがたく感じられたはずだが、そんな心証とは関係なくカモノハシが実在するように。

 すでに絶滅してしまった古生物の場合など、直接的な実証ができないケースは存在するが、その場合でも化石等の物証は必要だ。論証を挟むにしてもその“飛躍”が少ないに越したことはない。

■3:未証明の研究

 翻って人文学はどうだろう。
 先に挙げた階段状の図解は『風が吹けば桶屋が儲かる』に陥っていないと断言できるだろうか。

◇3-1:先入観やもっともらしさの罠

 本書には『専門家なら一読で論文の良し悪しに見当をつけられる』的なことが複数箇所に書かれているが、それは“ごく狭い研究者のサークル内でのみ共有されたルール”に対する感度であって、主張内容の真否は判定しえない──どんな学問分野の専門家でも。もっともらしさを正しさと誤認する認知システムの穴(連言錯誤など)は誰しも抱えているのだから。

(ある数学畑の知人は、『数学の論文は数式しか書かないのが一番理想』と言っていた。流石にこれは誇張含みの極論だと思うが、数式ではない文章を書き連ねるほど論者も読者も間違えやすいということらしい)

 すなわち、論証に論証を重ねた主張の真偽は、実証を伴わない限り証明﹅﹅である。

 客観的根拠に基づくとされる人文学研究も無くはないだろう。また、社会学者もしばしばそう主張する。
 しかし先に挙げた牟田氏や小宮氏の『広告等での女性表象は、女性差別を助長する』というアーギュメントは実証が極めて難しい──ほとんど不可能に思える。どんな事実なら実証しうるのか疑わしい。

 ありがちなのはアンケート調査だが、たとえ回答者の大多数が『それらは女性差別を助長すると思う』と答えても証拠として不適切だ。『●●だと思っている人が多い』ことは実証できても、それをもって『だから●●である』とは言えない。

 筆者の知る限り、女性表象と差別の相関を直接﹅﹅実証﹅﹅するような証拠は無い。
(そのような調査が行われた例は複数あるが、それが他の時代や地域に拡張できるかは不明)

 幾つかのファクトから論証を重ねて『差別を助長する』を導くことはできるだろうし、そこに一定の説得力は持たせられるだろうが、これまで述べてきたように説得力と内容の妥当性は無関係である。
(ディベートに慣れている人ならば『差別を助長する』を導出することもその逆もできるのだ──“巧拙を競うゲーム”の如く)

 よって『差別を助長するかも知れないし、しないかも知れない』とするのが客観的・中立的な立場だ。助長すると断言することは、何らかのバイアスによって事実を捻じ曲げた見解に他ならない。
 阿部氏は社会変革(暴力の否定・世界をよりよくすること・悪くなくすること)を人文学の究極目的というが、目的意識がバイアスを生むことは実に典型的な落とし穴である。

 人文学(および社会学など)研究のアーギュメントには客観的実証を欠くものが少なくない。
 未証明ならば更に研究を重ねて証明すべきだろうに、そんな途中経過を学術的事実のようにメディアで流布するのは不誠実だ。

◇3-2:研究と社会の接点

 阿部氏は研究と世界との接点を社会変革に見出したが、それ以前に担保すべきは『本当であること』だ。普遍的に・誰にとっても。
 だから論文のコアを定める際には『それがアーギュメントとして適切か』とか『アカデミックな価値があるか』とかよりも『その主張が本当だと客観的に証明できるか』を検討せねばならなかった。
 ──本書には、そのようなチェックを挟めというアドバイスが無い。

 そもそも、学問が何の役に立つのかという問いはリソース(金銭など)の都合だ。もちろん研究者も人間なので、予算を引っ張り生活費を稼ぐことも重要だが、『役に立つことが予め分かっている研究』など矛盾している──『これまで誰もやったことがないことを試す』営みを研究というのだから。
 研究者としての経験が豊富なら先行きや応用を予想できるようにはなっていくものだが、最終的にはやってみなければ分からないのが研究だ。あるいは、やってみても分からないものが。

◯ある発明の例
 1993年、ある発明がノーベル化学賞を受賞した。その発明は遺伝子を扱う研究の効率を大きく向上させるもので、それらの研究を介して広く世間に役立つことが期待された。
 しかしあくまで間接的な貢献に留まるもので、一般人に直接関与するようなことは考えにくかった。
 ──発明された1983年時点では。あるいは受賞した1993年時点でも。その位置づけが大きく変わるのは2019年または2020年になってから。

 現在、この発明の名は広く知られている。
 ポリメラーゼ連鎖Chain反応Reaction、すなわちPCRのことだ。新型コロナウイルスのパンデミックを受けて『感染疑いのある多数の人を短時間でスクリーニングする』ために活用されている(検体内に含まれるかも知れないウイルスの検出率を高めるため、そのRNAをPCR法によって複製し数を増やす)。
 このような一般向けの大規模な使い方が、発明時点から想定されていたわけではない。

 予算のことを別にすれば、科学的研究に目的(使い途)など無くても構わないのだ。いつか誰かの役に立つかも知れない、立たないかも知れない。

 PCR法は発明当時から研究所相手に商売する目処が立っていたが、そんな発見は稀である。
 例えばPCRの前提には岡崎フラグメントという知識があるが、その発見当時(1967年)は何の役に立つものか良く分かっていなかった。ただそういうものがあると、実際に見つけたものをよく観察し記録に残しただけ
 未来の視点からはそれで充分にありがたい。なにしろ主観を排した客観的な事実は、それゆえ誰がやっても同じようになる。
 だから応用が利く。PCR法の手順を正しく踏めば核酸鎖は複製される──原理などを全く理解していなくても。普遍的な事実に支えられた技術とはそういうことだ。

 今は何の役に立つか分からないあらゆる研究も、それが客観的事実を正しく記述しているならば、何が起こるか分からない未来へと遺す価値もあろう。


 論証ばかりに依拠する“研究”にそういった価値はあるのか?
 内容の事実性が不確かなら、社会を良くするための営みで社会を悪くしてしまうことも充分考えられるわけで、それは学術的事実よりも政治的イデオロギーに近い代物だと筆者は考える。

(イデオロギーに価値が無いなどと述べるつもりは無い。ただしそこに普遍性や応用性があるかは不明瞭であり、そのようなものに学術的価値は認め難い)

 『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』には、アーギュメントの内容を実証せよとは書かれていない。論証(に騙され易いヒト)の陥穽にも触れていない。
 普遍的な価値を生み出す手引き書としては不充分である。

以上

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小奥(こーく)
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