玉神木
大晦日から新年の二日まで実家に帰省していた。
去年の十月に母の納骨式のため一人では来ていたが、妻と娘を連れて帰省するのは一昨年の正月以来ちょうど二年ぶりだ。
一昨年の帰省から東京に戻った二週間後に母から病状を聞かされ、その一月後に母は亡くなった。それからコロナの騒ぎが大きくなっていった。
二年ぶりに実家に戻り、父親、三兄弟それぞれの家族と卓を囲むことで改めて浮き彫りになった母の不在感は、亡くなって二年経つが新鮮なことだった。
「あー、死んだんだな」と、ようやく得られた実感だった。
実家には庭がある。
住んでいた頃は不思議なくらい気に留めなかったが、植物に興味を持ってから初めて帰省した数年前の春の連休、その庭にたくさん花が植えられていることにふと気がついた。
何が植えられているか母に尋ね、その時返ってきた意外なほど詳細な説明で、初めて母が花に詳しく、そして好きだということを知るのだった。
紫陽花、ツワブキ、クリスマスローズ、芍薬、紫蘭、テッセン、ハゴロモジャスミン、サルスベリの木。他にも色々あったが全部は覚えていない。
隅に植えられた金木犀を見た時などは、毎年あの香りを嗅ぐと必ず地元を思い出すのはこれのせいかと、長年の謎がようやく解け胸がすっとしたりもした。
庭の中央よりやや奥まった箇所に、玉神木(ぎょくしんぼく)は主役然とした居住まいで植わっていた。
母に説明を受け初めて知った名だった。樹高は三〜五メートル程で庭の中では一番高い。
仰々しい名前に反し、何の変哲も無いただの細い木に見えたが、よく見ると、モリモリと繁る濃緑の葉の陰に、グリンピース程の蕾や開花したての白っぽい小ぶりの花を多数つけていた。
「これすごいいい匂いがするのよ」
母がそう言うので、摘んで鼻を近づけると微かに清涼感のある甘い香りが鼻腔を刺激した。
後にネットで調べるとバナナのような香りとあるが、自分の感覚ではバナナよりもっとクリアというか、爽やかな、それでいて甘い、あまり嗅いだことのない独特な香りだった。
「もうちょっと後だったらもっとハッキリ匂うんだけどね」と母は言った。
母が亡くなり管理者不在となったことで、あの時母と一緒に見て回った鬱蒼とした庭は、数本の低木と一メートル四方の花壇を残し、今年の夏に全面人工芝となってしまった。
聞いてはいたが目の当たりにするとやはり寂しかった。
東京にいる時、電話で事前に知らされたのだが、調子の悪い父の面倒を見るべく、着の身着のまま実家に戻った、小さな子供二人と持病のある義兄を抱える姉の負担を考えると、ぼくの気持ちなど伝えられるわけはなかった。
残された玉神木は、丸く切り取られた人工芝の穴から細い幹を伸ばし、やや密度の薄くなった常緑の葉を寒そうに風に揺らしていた。
玉神木を初めて香った年以来、まだ春に帰れていない。
今回の帰省時も花期ではないので、一度香ったきりとなっている。
母の手前素っ気なくしてしまったが、あの香りを嗅いだ時の高揚感は忘れられない。
金木犀とも違った、どこか懐かしいあの甘い香りをまた嗅ぎたかった。
忘れている母との思い出を何か思い出させてくれるんじゃないか。
そんな思いも心の隅にあった。
つぎはいつあの花の咲く季節に帰れるだろうか。
年末年始だけじゃなく、本当は春にも帰りたいのだが、なかなかそうもいかない。
東京へ戻る日の朝、玉神木の前まで行くと、少し膨らんだ花芽がたくさんついているのに気がついた。
そのひとつを指でつまんで軽くこすってみたが匂いはしなかった。
仏壇に線香をあげ、後ろ髪ひかれる思いで実家を後にした。
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