高輪ゲートウェイの今と昔
名前や何やら、いろいろ話題が多かった高輪ゲートウェイですが、工事が進むにつれて、昔の石垣や、暗渠となって隠れていた部分がたくさんあるようです。
今の施設と、昔の街の名残が混在する部分は、多くの場所に残されていますが、施設の一部となって保存されている場所はどれくらいあるのか。高輪にはどれくらい残るのでしょうか。
例えば、横浜・桜木町にあるランドマークタワーには、造船や整備に使われた船のドックがそのまま残されていますね。
少し、高輪ゲートウェイ周辺に興味が出たので、国土地理院の公開している昔の地図と、今の地図を見比べて、遊びながら勉強したいと思います。
この中心が高輪GW、上側に「提灯ガード」と呼ばれる地下通路があります。
電車輸送が盛んだった、まだ国鉄時代の写真で、1979年から1983年のものです。まだ、お台場も木場のような使われ方をされ、あるのは公園と空き地といった感じです。湾岸線もまだ全通していない頃。今、高層オフィスの立ち並ぶ土地が、国鉄の土地として線路が敷かれています。
凄い量の客車や貨車群です。写真は、1945年から1950年ということで、国鉄80系とよばれる電車が製造され出した時代です。しかしながら機関車も現役でD62というD52の旧型を改造し、新型車として投入するなど転換期であるように感じます。品川のオフィス街は、工業地帯のど真ん中といった物流拠点だったということが分かります。
あまり変わりないように見える写真ですが、1936年から1942年の写真です。埋め立てはされているものの、まだ海岸線だった部分が伺える景色ではないでしょうか。
日本の鉄道の始まりは、明治5年の品川横浜間と言われています。国土地理院で見れる写真の一番古かった1936年よりも前の、1872年のことで、当時の資料を見ると、「高輪築堤」と呼ばれる線路用に盛られたものであることがわかります。
これの一部が今でてきている?という話を風のウワサで聞いたので、興味が出て、今回調べることにしたわけですが、JR東日本は見学の募集してたじゃんか!気づかなかった。
ほかにも、品川の線路拡大に伴って、暗渠となり100年経たないにしても、80年前後、線路の下で日の目を見なかった部分が顔をだしたりしています。
コロ助が落ち着けば、ちょっと行ってみたい場所です。
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