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第2稿『万人と"ならでは"』|「コミュ力」の正体に迫る -後編-

「話し上手は聞き上手」とはよく言ったもので、私も以前、とある友人からそのような評価を頂いたことがあった。自分としては、聞き上手どころか話し上手とも言えず、ただの"話したがり"なだけだと思っていたので、その友人からの少し買いかぶりな評価に戸惑いつつも、自分に対して少しでもそう思ってくれているならば、その期待に応えるべくではないけれども、多少なりともそういう"聞き上手な自分"像をなるべく崩さないようにと、できるだけ丁寧にその友人含め人の話は聞くようにしている。 (話したがりかどうかに関わらず、人の話は丁寧に聞いて然るべきだと思うが。)

その友人と別れた帰り道、その友人から言われた「話し上手は聞き上手」というフレーズが気になって、少々思いを巡らせた。
そもそも「話し上手は聞き上手」という言葉は、その友人ならではの言い回しというよりは、一般的によく使われるようなフレーズ化した言葉である。「話し上手"は"聞き上手」と、数学的に考えれば「話し上手」と「聞き上手」の二者を"="で結んでいるかのような言い回しからも分かる通り、本来「話し上手」であることと「聞き上手」であることとは、互いに素な存在であることのように感じられる。私流の言い方をすれば「話し上手」=「"発信力"が高い人間」であり「聞き上手」=「"受信力"が高い人間」であるということになるわけで、"発信力"と"受信力"という対になっている二つの力がそれぞれ高い者同士が最終的に=で結ばれる、というところにこのフレーズの"ミソ"がある。

ここで、第1稿の内容を少し振り返ろうと思う。第1稿で私は、「コミュニケーション能力=発信力×受信力」であり、「発信力」=「何かを伝えようとする人が、その内容がより相手に伝わるようにする能力」であると定義づけた。第1稿では保留となっていたが、ここで「受信力」の定義について見つめてみることにしよう。「受信力」が「発信力」と対になる能力であるならば、当然その定義も対をなすと考えられるので、いうなれば「何かを伝えられようとする人が、よりその内容を相手が伝えたい形で受け取れるように解釈する能力」とでもなるだろう。

なるほど「受信力」がそのような能力だとすれば、「聞き上手」とはその能力に長けている人間のことであり、そこにはやはり「話し上手」とは相容れない全く別種の思考回路がはたらいていそうなものだ。にもかかわらず「話し上手は聞き上手」というその二者を同値関係で結ぶようなフレーズが存在しているからには、互いに素だと思われたその二者間に、実は何か共通する要素があると考えるのが自然である。
そこで、もう少しこの「聞き上手」という人間について深掘りをしていくことにする。(「話し上手(=発信力の高い人間)」については第1稿である程度掘り下げているので。)

思うにこの場合の「聞き上手」というものは、単にその「受信力」が高い人間のことという意味合いよりは、冒頭の私と友人の場合のように、主に話し手(=発信者)となる人間から主に聞き手(=受信者)となる人間に下される"評価"としての意味合いの方を強く持っているのであろう。かくいう私も一人の話したがりな故、どちらかといえば、いつも私の話を聞いてくれている友人たちが聞き上手であるかどうか(勝手に)評価する立場に回っていることの方がほとんどなのだが、そこでの判断基準として用いているのが「自分がより話をしやすい方向へ"ノせて"くれているかどうか」というものである。
私のような話したがり諸君なら分かってくれるだろうが、我々話したがりにはえてして、自分が話をしている時に「このタイミングでこういう相槌が欲しい」や「この話のこの部分もっと掘り下げて聞いてきて欲しい」といったある種の"エゴ"とでもいうべきものが存在している。そのような我々のエゴを、さも客のかゆいところをビタ当てちょうどよい加減でかくカリスマ美容師のごとくくすぐれる人間こそ、我々話したがりが求める理想の「聞き上手」であるのだが、ここに「話し上手は聞き上手」の本質があるように私は思った。

「話し上手」と言われるからにはやはり普段から主に話し手となることが多いのだろう、そのような人間に我々話したがりのエゴが備わっていないはずがなく、ということは「話し上手」が聞き手に回った時、おそらく彼らは如何にして話し手のエゴをくすぐるか、すなわち、話し手に"ノって"話をしてもらうにはどう"聞く"のがベストか、ということを常に考えながら話し手の話を聞いているに違いない。孔子の「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」ではないが、えてして人間は、自分がされて嬉しい事は他人にとっても嬉しい事として他人に対して実践してしまうものである。そのためか、少なくとも私が聞き手の時は、そのように"話し手が求めんとする聞き手像"を意識しながら話を聞くようにしているし、それが見事に"ハマった"結果、あの日友人から"私(=話し上手)=聞き上手"の評価を頂けたのだと今ではそう理解している。

こうして「話し上手は聞き上手」の本質が、相容れない「話し上手」と「聞き上手」という二者を同値関係で結ぶことではないことが分かったところで、改めて「聞き上手」が持つ本質的な能力、すなわち「受信力」とはどのような力であるのか考えていきたい。

わかりやすくするために、ここまでのこの文章を例にとりながら論を展開しようと思う。話し手と聞き手の構図になっていないので多少その構図の場合とは異なる部分もあろうが、今、私と読者諸君の間で間違いなく共有しているものとしてこの文章が存在しているわけなので、他の架空の状況や私自身の体験談などを引き合いに出すよりは認識のズレが起きにくいのでは、と思ってのことである。
ここまでのこの文章には、このような太字になっている箇所が数か所あったと思うが、諸君はこの箇所をどう読んでどう受け取ってくれただろうか。どの箇所を太字にするかどうかの選択権は書き手である私にあって、第1稿の言い方をするならその太字箇所の選び方にも私の「文章力」が現れているわけだが、少なくとも皆一様に「この部分を他の地の文に比べて強調させたいんだな」という感覚があるはずだ。これは、「文章の一部分が太字になっている時、書き手はその部分を強調しようとしている」という共通認識が、読者諸君と私との間に存在しているからこそのことである。そんなの当たり前のことだと言われればそれまでなのだが、もし仮に、これを私だけが勝手にやっている独自の表現技法だとすると、「この太字の部分は何だろう」と、読者諸君に一旦停止にとどまらせるもしくはスルーされかねないという私にとって恐ろしい事が起こりうるのだ。私にとっても、おおよそ一般的にも、この「太字にする」という行為には、少なくとも「その部分を強調したい」という書き手の意図が存在し、そしてほとんどの読み手がそのことを理解した上で文章中の太字部分を受け取ることで、初めて書き手の意図が伝わるのだ。

大げさな話かもしれないが実は非常に大切なことで、この「"一般的にされる表現"を受信者がどれだけ理解しているか」ということが、「受信力」の一つの要素になるのだ。
例えば、映画など映像作品において、"雨が降っている"場面では、悲しい気持ちや不安感などその場面の登場人物はマイナスの心情にあるのだ、と多くの受信者は受け取る。そして"その雨が上がり空が晴れ、虹が出てきた"ともなれば、登場人物の喜ばしい気持ちや事態の好転など先ほどまでのマイナスがプラスに変化したのだ、と受け取るはずだ。これは、映像作品における天気が持つ効果を受信者が理解しているからに他ならない。とはいえ、このような「一般的にされる表現」は、それぞれの文化圏や過ごしてきた環境や教育などによって異なりうるものであるが、逆に言えばそれぞれの文化圏や環境ごとの「一般的な表現」が間違いなく存在し、そしてその存在は、何も映像作品や文章に限ったことではなくコミュニケーションの場においても当然存在するもののはずである。

では、このような「一般的な表現」をより幅広くそしてより深く理解さえすれば、我々は「受信力」を高めて真の「聞き上手」になれるのだろうか。私はそうは考えない。真の「聞き上手」になるには、そのような「一般的な表現」を理解していることに加えてもう一つ大事な要素があると考える。それは「"その人ならではの表現"を理解していること」である。

先にも述べた通り、この「一般的な表現」はそれぞれの文化圏や環境によって異なることがあるわけだが、この"文化圏"という存在をどこまでの範囲のものとして捉えるかによって、その"一般性"が失われる場合があるのである。
私は日本のお笑いが好きで、先ほど映画の例えを出したにも関わらず映画やドラマよりはバラエティーの方がなじみが深いのだが、ここでは、日本のお笑いに存在する古典的な表現の一つである『押すなよ』を例にとって考えたい。
言わずと知れたダチョウ俱楽部の代名詞的なネタである『押すなよ』であるが、これを改めて整理すると、熱湯風呂を前にしたメンバーが「押すなよ…押すなよ…」と念を押し三回目に「絶対に押すなよ」と言ったタイミングで残りのメンバーで熱湯風呂へ突き落す、という一連の"くだり"である。これは、「押すなよ…押すなよ…」というセリフがお笑い的に言う"フリ"になっており、「押すなよ」と口で言いつつも実際には押すことを求め、そして実際に押されてしまう(それが派生して押されないという場合もある)ことで笑いを生み出すものであるが、ここにはまず、「押すなよ」というセリフが語義通り押すことを禁止する意味ではなくむしろ押す方向へと導くためのセリフであるという押す側と押される側との相互理解が存在し、その上で、そうした芸人同士のやり取りと実際に押された(押されなかった)という事象とをひっくるめて一つの"ネタ"であるという芸人と視聴者との相互理解もが存在している必要があって、そうして初めて『押すなよ』はお笑いとして機能するのだ。そうでなければ、「押すなよ」と言われた側は素直に押さないことを選択するであろうし、「押すなよ」と言われているのに押してしまっていることがなぜ笑いを誘うことにつながるのか分からずむしろ「熱湯風呂に入れられてしまうなんて可哀そう」「仲間を熱湯風呂に突き落すなんてひどい仕打ちだ」という全く見当違いな感想を抱かれてしまっておかしくない。つまりこの『押すなよ』という存在は「日本のお笑い」という"文化圏"でのみ成立する表現であり、これは「一般的な表現」というよりは「日本のお笑い"ならでは"の表現」とでも呼ぶべきだと理解できる。

このように「一般的な表現」とはいっても、それが通用する文化圏の広さによってはその"一般性"が失われ、それはその文化圏"ならでは"の存在となることがあると分かった。このことを会話によるコミュニケーションに落とし込むならば、「その話し手"ならでは"の表現」や「その話し手とその聞き手の空間(="文化圏")"ならでは"の表現」(=俗に言う"身内ノリ")が存在している、ということになるだろう。これこそが、私が考える「受信力」のもう一つの要素である「"ならでは"の表現を理解していること」にあたるのである。

ここまでの内容から、受信者は、自身が発信者から受け取った情報について、それが「一般的な表現」においてどのような意味をもつかと、それが「その発信者ならではの表現」だとしたときにどのような意味をもつかの、二つの観点から総合的に考えて解釈しているのだということになる。そして、会話においてその解釈が発信者の伝えたい内容とどれだけ一致しているかで「聞き上手(=受信力が高い)」かどうかが決まるのだ。ここにおいて、「一般的な表現」に対する理解度と「"ならでは"の表現」に対する理解度とはそのどちらもがより高い方がよく、さらにその掛け合わせによって解釈の精度が決まることから、「受信力=一般的な表現に対する理解度 × "ならでは"の表現に対する理解度」であるといえよう。

したがって、ここで言う真の「聞き上手」とは、会話における一般的な表現への高い理解度を持ちつつ、その話し手ならではの表現にも敏感に対応できる人間、という事になる。その上で、この「聞き上手」にも実は2種類あるのだということに気が付いた。

まずはいわば「万人に対する聞き上手」とでも呼ぶべき聞き上手である。この「万人に対する聞き上手」とは、受信力の2要素のうち「一般的な表現に対する理解度」の方が高い聞き上手で、俗に言う「聞き上手」はおそらくこちらの聞き上手のことを指している。この「万人に対する聞き上手」という存在は極めて貴重で、誰にでも成せる業ではない。それゆえ、そのこと自体を生業として生きているケースがある。例えば、カウンセリング業界やコンサルティング業界の人間がそうだ。広い意味でいえば占い師なんかもそうだろう。彼らはまず、普通の人間に比べて、初対面の発信者からでもより多くより正確に情報を受信することができる。もともとそういった能力が高かったのか、仕事をしていく中でそういった能力が鍛えられたのか、そのどちらもなのかは人によって差異があろうが、いずれにせよそういった能力が高いことが求められる分野ではある。そしてその上で、その相談者"ならではの表現"を捉えるのが早くて上手いのだ。似たような相談内容や相談者に出会ったとしても、あくまでそれは"似たような"ことなだけであって、それによって以前の知識や経験が活きることもあろうが、だからといってあらゆる点で完全に同じなわけではなく、あくまで目の前にいるのは当時とは別の人間である。彼らには、そうしたことを踏まえた上で、その時その時で目の前にいる人間に真摯に向き合う事が求められている。このような、経験則がもたらす"体系的な理解"と一回ごとの"個々人への理解"とをより深めることで、当人が納得のいく方向へと導くことができるのだ。

そしてもう一方が「ある特定の人物に対する聞き上手」という存在である。これは、受信力の2要素のうち「"ならでは"の表現に対する理解度」の方が高い聞き上手で、(厳密には異なる部分もあるのだろうが、)本稿前半で扱った「話し上手は聞き上手」という時の「聞き上手」が、どちらかといえばこれにあたるのだろう。思い返せば確かに私が聞き上手だなと思う友人たちからは、俗に言う「聞き上手」としての側面よりも、"私にとって"の「聞き上手」としての側面の方が、より色濃く感じられるような気がする。もちろんその友人たちはきっと、私以外の人間に対する「聞き上手」もそつなくこなす器用さを持ち合わせた上で、私の話を聞いてくれる時は、アンテナを対私用にチューニングしてきて(いわばある意味"聞く耳を持って")くれているのだろう。そしてこのような存在の方を、前述の「万人に対する聞き上手」よりも貴重な存在であるように感じることの方が、日常的には多いはずだ。少なくとも私においては、何か悩みごとや相談ごとがあるとき、その相手としてまず浮かぶのは、前述のような"相談を受けるプロ"の存在ではなく「私にとっての聞き上手」な存在の方である。(そういった点においては彼らもある意味"プロ"である。)

「話し上手は聞き上手」というフレーズから出発し、「聞き上手」という存在について掘り下げながらここまで、コミュニケーション能力における「受信力」の存在についてあれこれ考えてきたわけだが、私にとってコミュニケーションとは (第1稿でも述べた通り)「人と人との間の情報の発受信」のことであるため、たとえこのような文章を介しての形であっても、これはれっきとしたコミュニケーションとして少なくとも今の私は捉えている。ということは、この文章を読んでいる、すなわち私からの情報の"受信者"としての読者諸君にとって、私"ならでは"の表現や私の人間性を理解することは、この文章をより私の意図する形でかつ、より面白く受け取るために必要なことであるのだ。とはいえ私自身では、私の文章を初めて読む人でも私の人間性なんかはある程度伝わるように意識して文章を書いているつもりではあるし、(第1稿の内容的にいえばそれもまた「文章力」であるし、)既に私の人間性を知っている、もしくは note を続けて読んで頂く中で段々と私の人間性が見えてきた所で文章を読んでみると、またさらに面白く感じられるようになっているとも思っている。

まだまだ駆け出しで、まだまだ粗削りではありますが、これからもどうぞよしなに。

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