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第1稿『文章力と伝える力』|「コミュ力」の正体に迫る -前編-

私には、文章力がない。
現に今、2文目3文目…と、どう続けていくかに困っている。
ただそれは、"書く内容"が浮かばないからではなく、"書き方"が浮かばないからである。

人が「文章を書く」というとき、そこには3つのステップが存在すると私は思っている。それは、①「思い描く」②「文字に起こす」③「整える」 の3つである。

「文章を書く」となればまずは誰もが、内容を考えるところからスタートするだろう。架空の世界を想像するのか身の回りの出来事についてか、あるいは広く世の中への思いや考えを綴るのか、はたまた与えられた仕事やテーマに沿って物事を整理しまとめるためか、それぞれ色んなタイミングがあろうが、いずれにせよ「書く」という行為には常に内容が先立つものであり、書き手はそれを一度頭の中で"思い描い"ているはずだ。

どこまでを頭の中で"思い描く"かは人によって差異があろうが、頭の中にあるだけでは「文章」とはいえないので、その中身を取り出し"文字に起こす"必要がある。紙の上でも電子上でも、文字の形にして自分以外の人間にもきちんと視認できるものにしていく。ここでようやく「書く」という行為が本来の意味でスタートしたと言えよう。

ただ、そうして書かれたものは、えてして煩雑で書いた本人にしかわからないような状態になっていることが多い。「メモ」や「下書き」などと呼ばれるそれは、複雑に渦巻く書き手の脳内を断片的に切り取り投射したものであるため、もはや書き手本人にも何が何だかわからないような状態になってしまっていることも時にあるだろう。(私はそういうケースが大半である。)

そこで最後に、それら書き手の思考と試行の断片をつなぎ合わせて"整える"作業が必要だ。やはり「文章」というからには、多少なりとも「読み手がいる」ということを意識せねばならない。小説やエッセイなど創作物の類であれば読者に対して、企画書やプレゼン資料などの類であればクライアントや会議の参加者などに対してなど、それぞれの読み手に、より書き手自身の伝えたい事が伝わるようにしなければならないのだ。メモや下書きのような断片的でバラバラの状態のものでは読み手は付かない。構成を考え、筋道を立て、要点を絞り強調する。それだけではない。言葉を選び、表現を尽くし、一文一文にまでこだわりぬいてこそ、他者と差別化された、より魅力的で伝わる文章となる。そして、一文は短く、誤字脱字をなくし、句読点や改行位置にも気を配り、時には配色やフォントにも工夫を施すなどして体裁を整える。こうして細部にまでこだわることが、文章としての価値をより高めることに繋がろう。

私にとって「文章力」とはまさにその"整える"部分の力の事であり、私に欠けているのもまさしくその力であると思っている。

まず私が本稿をどう書き進めているかについてだが、私が日々ふとしたタイミングでふけった物思いのうち、文章に書き残しておきたいと思ったものがあれば、その要点と概要とを都度ケータイのメモ帳にまとめていて、時折それらを眺めつつ考えを深め、まとまった時間がとれるタイミングで筆を執りこのように文章の形へ組みあげ練りあげているのである。
そのようなスタイルで書いているためか、もちろん先にも述べたように読み手がいることを意識して書いていないわけではないのだが、それよりもむしろ自由にかつ私なりの味やこだわりを出す方に重きを置いて書いているので、冒頭では「どう続けていくかに困っている」なんて第1稿らしからぬ悩みを吐露もしたが、それももはや楽しんで悩んでそしてそのまま書いてしまっている節があるのだ。

ただ、真に読み手を意識して文章を書かなければならない時、また、文字数や期限が設けられた文章を書かなければならない時、(人が文章を書くという時はそうである場合の方が圧倒的であろうに、)そのような"楽しんで悩む"余裕などなく、私はただ"悩んで悩む"だけになってしまうのだ。
そのことを一番痛感させられたのがこの「大学3年の夏」というタイミングだったのである。

大学院進学を視野に入れていない多くの大学3年生(特に私のような文系学部生)にとって「大学3年の夏」といえば、自身の将来についてついに本格的に考えなくてはならないタイミングであろう。(私が私自身の将来をどう考えているのかについてはまた今後のテーマにとっておくとして、)その中でやはり避けて通れないのが就職活動(以下、就活)、さらにいえばいわゆる「サマーインターンシップ」と呼ばれる一連の過程である。
例に漏れず私もその典型的な過程を辿ってきた人間であるので、以下でその簡単な今日までの時系列を追う。

大学2年から3年に上がると、誰からともなく周囲がざわつきだす。それは、大学側からなのか周囲の同級生達からなのか、先輩や家族といった既にその過程を経験した者達からなのか、はたまたそういった就活業界の大人達からなのか、それは定かではないが、とにかく周囲が"なんとなく"就活に向かう"雰囲気になる"。そうして言われるがままに業界各社がリリースしている就活アプリを片っ端からインストールして、彼らの示す就活フローチャート通りに事を進めていく。自身の興味や原体験を深堀りしてそれを"働く"ことと結びつけるための「自己分析」、そうして掘り起こした興味や原体験を実際の産業社会と関連付ける「業界研究」、その中で自身の社会人としての理想や目標を達成するのに最も適した組織を探す「企業研究」の3つを並行してこなしていった。そうしていくつかの企業に目星をつけたら、その企業をより深く知り、かつその企業で自分が実際に働く姿をより鮮明にイメージするために、企業側が用意する短期(=1日~5日程度、または2,3か月程度もしくはそれ以上の長期)での就業体験:インターンシップ に参加をしていこうということになる。ただ、インターンシップに参加したい企業が見つかったとしても、実際にそれに参加するためには、企業側が設ける選考に通過しなければならない場合がほとんどである。その選考というのがおおよそ、「ES(エントリーシート)」「(集団もしくは個人)面接」「GD(グループディスカッション)」の3つであるのだが、ここに何より文章力が求められ、それに欠ける私はとても苦戦したのである。

企業側が我々就活生に課す第一の関門として「ES」、平たく言えば書類審査が存在しているわけだが、ここを難なく通り抜けられたとすればそれは、一部の上位大学の人間か、何か特別な能力を持っているあるいは何か特別な経験や体験をしてきた人間か、その他特別光る"何か"を"持っている"人間である。私を含め何も持たない普通の就活生諸君がこの「ES」という関門においてまずその出鼻をくじかれるのには2つのポイントがあると私は思っている。それは、「そもそもES自体が上手く書けない」ことと、「何とか書けたもののそれが通らない」ことである。そしてそのどちらの点においても、文章力が大きな争点となるのは当然のことであり、それがない私が苦戦を強いられてきたのもまた、当然のことではあった。

とはいえこれはあくまで第一関門。就活の大部分が企業と学生とによる面接が主体であることは、現代日本においても今なお変わらないことだと私は思っている(が、それも結局は第一関門を突破してからの話であるのだろうが…涙)。であるならば、問われるのは文章力よりもむしろ「コミュニケーション能力」、ひいては「情報発信能力」のはず。たとえ紙面で上手く表現できなくたって、口頭でさえ自分自身を表現し発信することができればそれでいいのでは…。と、ある種"逃げ"の思考に陥りかけたところで私にひとつの仮説が舞い降りた。

"発信力"の根源には"文章力"の存在があるのでは?」

先ほどの私の「文章力」とはどのような力であるかについての考えを思い出してほしい。私にとって「文章力」とは「"整える"力」のことであった。書き手の思考と試行の断片を拾い集め、構成や表現を考えながらそれらをつなぎ合わせ、最終的に自身の伝えたいことが相手により伝わるように工夫を凝らす。この営みこそが文章を"整える"ということであり、そのことにどれだけ長けているかこそが「文章力」である、と、そう私は定義づけたわけだが、果たしてこの営みというのは、こと「文章を書く」それだけにのみ当てはまる行為であろうか、と。否、そんなことはなくむしろ、コミュニケーションの場において自身の発信内容を組み立てる行為にこそ、より「文章力」が必要となってくるはずだ。

例えばそれこそ、就職活動における面接を例にとってみよう。事前にこちらが対策を立て予想していた通りの質問だけで終わるなら、それほど簡単なことはない。用意していた通り、練習してきた通りに質問に答えればそれで済む話だからだ。ところが実際の面接というものはそうも上手くいかない。こちらが想定してない質問や回答に対する掘り下げがしばしば発生するものだ。その場で新たに与えられた状況や質問に対して瞬時に回答を作り出して答えることが求められる。ここで私たちは自身がもつ文章力を十二分に発揮せねばならない。与えられた質問そのものとその答えとして必要な情報を"思い描き"ながら、自身の考えがより面接官に伝わるように構成と表現を考え、それを言葉という音に乗せ身振り手振りに乗せ表情に乗せ回答する。"書き"こそしないものの、これはまさしく文章を整える営みそのものである。

ここで一つ、新たな力の存在に私は気が付いた。「伝える力」の存在である。

対話によるコミュニケーションと文章の違いは、発信者が受信者と同じ空間を共有しているかにある(もちろんそれ以外の違いも考えられるが、今回はこの点に焦点を当てたい)。伝えたいことの発信者が受信者と同じ空間を共有しているということは、発信者はその内容以外に、声量や声色、身振り手振りや表情も武器として使えるということである。これは文章にはない大きなメリットだ。発信者が自身の伝えたい内容を磨き上げる力を「文章力」とするならば、「伝える力」とでも呼ぶべきこれらの武器を使いこなす能力は、発信者と受信者が同じ空間を共有してのコミュニケーションにおいてのみ発揮される力である。もっとも、フォントや文字色、レイアウトなどを考えることが文章を書く時における「伝える力」にあたる部分なのであろうが、これらの武器はあらゆる文章を書く時に常に使える武器ではないので、やはり「伝える力」は発信者と受信者が同じ空間を共有してのコミュニケーションに特有の力であるといえよう。

ここまでの内容から、私はある結論にたどり着いた。それは、
「コミュニケーション能力=発信力×受信力」であり、そして、
「発信力=文章力×伝える力」であるということだ。

「受信力」がどういう力であるかについてはまだ考えがまとまっていないので、今後のテーマにとっておくとして、「発信力」については考えがまとまったのでここで一度整理したい。
先ほどから何気なく「発信力」「受信力」と未定義語を連発しすぎてしまっているので、ここでこれら未定義語についての定義を語らねばなるまい。そもそも私にとってまず「コミュニケーション」とは「人と人との間の情報の発受信」のことであり、したがって「コミュニケーション能力」とは、その情報の発受信能力のことであるから「発信力×受信力」で定義できる。
そしてこの「発信力」というのが本稿における最大のテーマであり、ここでは「文章力×伝える力」であると定義づけた。「何かを伝えようとする人(=発信者)が、よりその内容が相手に伝わるように、内容の整理や工夫をする能力」である「文章力」と、「何かを伝えようとする人が、よりその内容が相手に伝わるように、表現の工夫をする能力」である「伝える力」との総合力、すなわち「何かを伝えようとする人が、その内容がより相手に伝わるようにする能力」こそが、コミュニケーション能力の成分の一つである「発信力」という力なのである。

(第2稿へ続く…)


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