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調和とは命と命の燃えかす


望む世界があるのなら、まず自分を整えるのが先、
ということがようやく腑に落ちたのは
もう30代も折り返した頃だった。

カタチあるものもないものも、
希望も不安も喜びも怒りも、
すべてが流れ巡っていくんだと。



家族が増え植物が増えて、窮屈になってきたお家から
空が近くて庭のある古いお家にこの夏移住してきた。

引っ越したら近くに畑を借りて自然農を再開したいな
と思っていたら、移住するまで知らなかったのだけれど、
家の上にはジャングルに戻った元畑の土地が付いていた。
ジャングルを整理してみると、
以前住んでいた方が何かを育てたり、
ひと休みできるよう整えた痕跡が埋もれていた。

小高い畑の上に立つと、
天上から地上のすべてを祝福するように
お日さまの光が降りそそいでいるのが見渡せる。

世界はギフトにあふれていて、
すべては出会うべくして出会い
巡るべくして巡ってくるんだなと、
これまでの歩みをふりかえってそう頷けるようになった。



自然農に出会ったのは二十歳くらいの時だった。

自然農とは、耕さず、持ち込まず、持ち出さず、
自然の摂理をよく踏まえ、
自然のサイクルや自然の持つ生命の力に
できるだけ寄り添いながら植物を育てていく
農だけにおさまりきらない生きる哲学のようなもの

なんだけれど、その頃の自己否定でいっぱいだった心には、
"人間は(自分は)自然の営みを妨げるじゃま者"
という意味に映った。

世界は自分の鏡なんだなと今ではわかる。
その頃の自分の世界は心象風景そのままに、
一筋縄で行かない人間の見本市かのように
自分を筆頭にあらゆるジャンルの難しいキャラクターが次々登場した。

人間は怖いから植物の命の温度を感じて生きたい
と思っていたはずなんだけど、
生々しい剥き出しな人間模様のど真ん中で、
すり減らし研ぎ澄ましもまれながら10数年流れた。



そんなある時に、こんな言葉と出会った。

「人間も、人間のすることも、人間の作ったものも、
すべてが自然の一部」

コンクリートジャングルのような人工物だって
不自然といわれる人間の所業さえ、丸ごとが自然の一部、
自然の摂理にそっていなければ、淘汰されるだけで。

なんだか世界の見え方が180度回転したように思えた。

そっか、自分も自然の一部なんだから
素のまんまで生きていていいんだ、
自然の審判の前に人になす術はないのだから、
その中で身も心も委ねて今を生きるだけなんだと。

それから色んな絡れがほどけだしたように思う。



人の営みと植物の営みとの調和点を
模索したいと思っていたこともあったけれど、
ちっぽけな計算なんて容赦なく自然の力にぶったぎられ、
命と命が燃えた後の燃えかすのようなものだけが
調和といえるのかもしれないな、
とこの頃はなんとなく思っている。

もし、与えられている役割があるのだとすれば
思う存分命を謳歌して生きるだけなんだろうと思う。
すべての生きとし生けるもののように。

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