全部が渾然一体で---畑と盆栽のこと3
「苗の枝先をちょっと切っただけでも、自然型ではなくなってしまう。ー 自然というのは、生まれながらのまま、裸のままのものが、そっくりそのまま健全に育った場合にのみ、自然型になる」
「人間は何もしなくても楽しかったのに、何かすれば喜びが増すように思った。物に価値があるのではないのに、物を必要とする条件をつくっておいて物に価値があるように錯覚した」
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福岡正信さんの「わら一本の革命」に出会ったのは20歳の頃。
その頃の自分の心象風景にぴったりはまったそれは
元からの反骨心や罪悪感、自責を強めて、生活は混沌を極め、10年して田畑からも去ることになってしまった。
数年後、また植物とともに生きたいと望んで、盆栽を始めた。
今度は償いじゃなく、純粋に自分の喜びのためだけに。
それから10数年の今。
自然農の畑を再開し、盆栽と畑と行き来するようになっても福岡さんの言葉に異論はないし、
自然体の植物をわざわざ鉢に植えこんでおいて、
また本来の姿に近づけようと水をやったり剪定したりするのはまぁ不自然でまどろこしいかな? と思わないでもないし、
ただ昔と大きく変わったのは、不自然も自然の一部、何が淘汰されていくか審判するのは天に任せたってこと。
今は何の意図もなく自由で、愉しい。
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昔は盆栽をしていても、植物が主役、自分は3歩下がるくらい慎み仰ぐような気持ちだったけれど、この頃は主役は植物でも鉢でも人でもなく、フラットに全部が切磋琢磨して渾然一体になりますようにという思いでやっている。
盆栽と自然農の畑、真逆のような2つをやっていて違和感がないのはどういうことか、自分でもぼんやりしてたけれど、
上も下もなく全部がじゃんじゃん底力を発揮して渾然一体になればいいという思いは共通で、むしろ盆栽をしている時ほどそうだと最近ふと気づいた。それが今の自分の世界観だと。
生まれた時代や場所が違えば、人は自然の一員などと再確認する必要もなく当たり前だっただろうに、そうでなかった自分は、山を歩くより原生林を眺めるより、土まみれで一心不乱に盆栽や畑をしているうちに、あ、同じ環の中で生きてるなという感覚が沸いてくる。
世界観は世界をつくり、世界は世界観をつくり、
鏡のように映しあっていくらしい。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
―宮澤賢治『農民芸術概論綱要』
世界というのは人の世界をどうこうじゃなくて、自分で自分の世界を救済し、解放するということだったんだね。