自由な教育ではなく、自由への教育
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この夏からシュタイナーのお部屋に子と通うようになって、自分にも子にもすっかり暮らしに馴染んだ場所になった。
シュタイナー教育が目指すのは、
"自由な教育ではなく自由への教育"、
それは核心をついていて、心に刺さる言葉だった。
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自由とは何か、という問いがそれから日々片隅にある。
空を飛ぶ鳥や風に揺れる草木を見ると、人よりも自由な存在のように感じる。
鳥や草木は人よりよほど自然の掟に忠実なのだけれど。
そんな鳥や草木の生きる姿勢を見つめると、
ただ自分がやりたいことをやる、それが自由だととらえるのは少し稚拙に感じられてくる。
その"これが自分だ"と思っている意識さえ
無数のミトコンドリアや微生物、酸素、太陽、水、
数十億年の記憶を持つDNAに支えられ、何ひとつ"自分"ひとりの生み出したものはない、のなら。
そういえば、自分がやりたいことをやる、
だった若い頃よりむしろ、
自分と他との境界線が溶けて渾然一体となる、
そんな感覚に近づくようになってからの方が、実際に自由を感じている気がする。
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たぶん自由とは、心のあり方なんだろうと思う。
自然の掟に由来していない、人が自らつくりだした怖れや誘惑に拘束されない心。
3年半前、不安と怖れが蔓延する世の中で子が生まれた時、どんな時代、どんな世界でも喜びを感じて生きられる人に育ってくれたらいいなと願った。
どれだけ遠い場所へ旅しても、どれだけ極端に生きても、どこまでもずっと付いてくるのが自分の心。
1番やっかいで、でもずっとそばにいてくれるのも自分の心。
だから、どこにいてもどんな時でも、
命が望んでいる声を聴けるすなおなやわらかい心を育んで、地上を謳歌して生きてくれたら、と願ってる。