玉子を割るとき
玉子を割る。黄身を潰す。白身を引き裂く。
このかわいらしくまるい、屈託のない笑顔の目玉焼き。白い柔肌で澄ましたポーチ・ド・エッグ。威勢のいい半熟卵。薄羽衣を纏った温泉卵。
「この子をいつ割ってやろう、潰してやろう、引き裂いてやろう」
この子らに出会ったとき私はそう身悶えながら食指を動かす。なにものにも代え難い、個人に許された破壊と創造のよろこびが繰り広げられる予感に、胸を躍らせるのである。
破壊には細心の注意が払われる。まずはそのままの料理を味わうわけだが、一口味わうごとに玉子と他の食材との均衡、配分は変化していく。これを慎重に見極めるのである。時には衝動に任せて最初から一思いにやってしまうこともあるが、それは稀だ。楽しみは最後までとっておきたい。
頃合いを慎重に見計らい、よし、と決心したら作業だ。ゆっくりとゆっくりとカトラリーを玉子にめりこませていく。柔らかい肌にぷつり、と刺さり憐れ受難の子は、ついに耐えきれずぷちんと弾けてしまった。
「嗚呼割ってしまった、もう取り返しがつかない」
濃密でポップなオレンジ色の血は大地を覆い、白い肉片は散らばって混ざり合う。玉子を割るという行為は、グロテスクで、エロチックで、傲慢なのだ。ただ、あの明るい色彩に巧く誤魔化されているだけなのだ。愛らしいあの子は、もう跡形もない。
そして私はある種の罪悪感や哀悼を覚えながら料理を口に運ぶ。玉子のまろやかな旨味に包まれたその料理は、もはや割る前とは別のものだ。新たな楽園が創造されたという福音がきこえる。
生卵の殻を割る。それも確かに破壊ではあるが何かが違う。殻を割って中から卵を取り出すことは、ただ赤子を見出すのと変わらない。無垢の赤子を少女に育て上げる。それが卵を調理するということである。私はあらゆる形に姿を変える卵と、せわしなくめまぐるしく、ころころと変化する少女を重ねずにはいられない。少女は、変化の途中であまりにも多くの顔をみせる。
それに私はあの無味乾燥した感触よりも、玉子の肉感を好む。
あの子らは、破壊されるために生まれてきたのだ。その身を捧げて私をよろこばせるために調理され創られた、いじらしい健気な子。その子達を壊して、私は新たな楽園を創り上げる。
玉子を割るということは、本当はそう云う、真にたいそうなことなのである。