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マスメディアは高校に“青春”というバイアスを押し付ける。そして子どもたちは……①
[要約]
高校を舞台にしたドラマや映画やバラエティ番組、高校生が活躍する甲子園や高校サッカー選手権といったスポーツイベントなど、高校や高校生にフォーカスされたコンテンツを一通りながめてみよう。マスメディアがこれらを扱うとき、脚本通りとか試合内容を正確にといったシンプルな伝え方ではなく、そこに本来不純物である“青春”の匂いをかよわせようと腐心していることがわかるだろう。なぜなら、“青春”なる概念は、あらゆる年代が無根拠なポジティブイメージを共有しており、なおかつ、それのみで作品が成立するほどの強力なフックがあるからだ。
しかしそれは実際の経験に基づくノスタルジーからくるのではなく、あくまでフィクションである。この“青春”幻想の根深さこそが今回のテーマである。
“青春”幻想あるいはバイアスは、年長世代のみならず若い世代、つまり本物の高校生も共有している。おそらくはマスメディアによって維持されているのだろう。
マスメディアとは無関係な教育活動でさえ、この根強い“青春”バイアスから逃れることは難しい。それゆえに “青春”は教育にとってきわめて厄介なのだ。残念なことに、子どもたちが思い描く“青春”は、より陳腐化したフィクションのそれに年々近づいているように思われる。
今回は少し厄介なテーマを扱いたいと思います。
論旨もわかりにくいので、先に要約を書いておきました。要約もそこそこ長くってわかりづらいかもしれません。
テーマはみんな大好き“青春”です。読み方はセイシュンでもアオハルでもいいんですが、この言葉を徹底的に批判的な文脈で扱います。
“未成年の主張”の根強い人気
きっかけは仕事でした。
学校で広報関係の仕事をしているうちに、青春とは、想像以上にあなどれない幻想だと気が付いたのです。年がら年中、”青春”幻想に振り回されてきたといってもいい。
そのことを身近に感じられる例といえば、そうですね。たとえば『学校へ行こう!』という番組の“未成年の主張”というコーナー。
学校の屋上で生徒が何か熱いことを叫ぶという有名な企画です。
これが番組の看板コーナーとして放送されていたのは1997年~2004年のこと。ところが、20年以上も経った今もなお、生徒たちはなぜだかこの企画を知っています。そして、この企画が持つ“青春”っぽさに無邪気な憧れを抱いています。
典型的なのは、屋上でずっと憧れていたクラスメートに告白するとかそういうのです。
こういう企画って視聴者も「あー青春だなあ」とか思うんでしょうが、昔から腑に落ちないんですよね。そもそもそんな極端な青春って一般的だったことは一度もないし、誰にとっても懐かしいわけがない。
全校生徒の前で告白したことある人、います? いませんよね。なのになぜ多くの人がこんな光景を「これぞ青春!」みたいなイメージで共有しているんでしょうか。(かつて自分と関わることがなかった“青春”の匂いをかぎとって快感を覚えている人が大半なのでしょうが。)
それに、これって企画の時点で倫理的に問題がありますよね。
愛の告白みたいなプライバシーそのものをヤラセなしで全国放送するなんて、事後にトラブルの種が生まれそうです。出演する方も企画する方も浅薄じゃないですか。「おいおい危なっかしいもん放送してんなあ」と、みていて不安になる方が正しいと思うんです。
告白に失敗して傷ついた子どもの心は、テレビには映らないかもしれませんが、教室に入れなくなるとかそういったリアルなトラブルは現実に生まれてしまいます。成功しても学校内外で茶化されたりするでしょうし。
なので個人的な考えをいうなら、こういった“青春”を押し付けるマスメディアが、大がつくほど嫌いなんです。教員として避けるべきリスクに感じてきました。
話をもどしましょう。
ともかくですね、平成のバラエティの企画である“未成年の主張”を、令和の高校生が文化祭の出し物としてやりたがる傾向があるようなんですね。一世代はズレているはずなのに、根強いなあ、と驚きませんか。
マスメディアは”青春”の再生産工場か?
生徒たちは何がしたいんでしょう。よく観察してみましょう。
生徒たちが抱える欲求は「あの“青春”をこの学校で再現したい!」というものです。自分自身が熱い告白をしたいのではなくて、「あの“青春”の熱狂の中に自分もいたい」という感じでしょうか。まあ、憧れってのはそんなものですよね。
ポイントは、あの“青春”なるものってどこで学んだのかってこと。何十年も前にテレビで流れた企画なんて風化していてもいいはず。つまり、ステレオタイプ化された青春像を多くの子どもが植え付けられたのは、何によってなのか。それを問題視してみます。
結論。
いろいろあるんでしょうが、私はここでマスメディア主犯説をとなえます。
あの“青春”なるものが維持されてきた一因はマスメディアにあるんじゃないかと。
物語メディア(映画やマンガ等)の影響もあるんでしょうが、どっちかっていうと、もっと普通のニュースとかバラエティ番組とかスポーツ中継とかが元凶なんじゃないか。そういった大衆向けコンテンツが持つ志向性というか偏向を見直すべきじゃないか。
これが私の意見です。
(以前、“キラキラJK”という言葉から女子中学生~女子高校生が思い描く理想の女子高生像について語ったことがあります。そこでの結論は、このイメージはソーシャルメディア=SNSで拡散&増幅されているということでした。今回のはそれと似ています。青春像は女子高生像と比べると、ソーシャルメディアよりはマスメディアの影響が濃いように感じます。)
「〇〇が元凶だ」って言い切ると反論されそうなんで、それについて。
少なくともルーツについてはどっちだかわかりません。マスメディアのバイアスが大衆に浸透したのか、大衆のバイアスを先読みしてマスメディアが制作しているのかまでは。最初がどっちかはともかくとして、それが実際に生まれてしまい、何らかのシステムによって維持されていることだけは確かのようです。
それに、マスメディア以外にも原因があることはおそらくそうなんですけど、そこに深入りする気はないです。
もうひとつ予防線を張らせてもらいます。
別にこれ、空想で語っているわけじゃありません。
私は仕事柄、高校が出てくるテレビ番組とかと絡む機会が多くて、この違和感に気が付きやすい立場にあります。ですので、ここでの指摘ってただの空想じゃなくてそこそこファクトに基づいています。
具体的な名前をあげて触れませんが、テレビ番組の企画書を見ながら、そこに歪んだ青春観が盛り込まれているのに違和感を覚えたこともあります。
子ども向けの広告に関わると切実な問題でもある
話を進めましょう。
そういうマスメディアの実態を度外視したとしても、私は学校のパンフレットとかのデザイン周りを作ってきたので、その界隈でポカリスエットのような青春=爽やか感がひとつの正解として共有されていることを知っています。
なんなら業務上、それを演出する必要に迫られることも多々あります。オッサンなのにリハーサルとして屋上でジャンプして写真とるとかね、そういう無茶をしてるんで、まったくもって他人事ではないわけです。
ポスターをつくるときなんかは、いかにして子どもたちが持つ青春像に近いものをビジュアルとして提供できるかってウンウンうなったりしています。わりと切実です。
(余談ですが、ポカリの広告って青空、夏服の少女、風でなびく髪、飛び散る透明な汗などのイメージで統一されているんです。そのため青春イメージの理想形として語られることが多いです。実際、ポカリの広告が青春イメージの普及に与えた影響は小さくないようです。たとえばスターツ出版という泣ける青春モノを扱った小説レーベルの表紙と比べてみると、よく似ていることに気が付くはずです。ポカリがパイオニアかどうかまでは知りませんが。)
私の仕事はともかく、ポカリとかの広告をみても、このバイアスの根深さはすぐにわかりますよねってところは強調しておきたい。
そしてあらためていいますが、マスメディアが子どもたちに手垢のついた“青春”イメージを押し付けること。これって褒められることじゃないですよね。「"あの青春”を味わいたかったのに"この学校"では味わえなかった」みたいな悔いを残して卒業していく生徒たちも少なからずいるようですし。
このバイアスの根強さとか根深さを別の題材からみていきましょう。今度は“未成年の主張”のようなバラエティ番組やポカリのような広告ではなく、スポーツの大会を眺めていきます。
いや、長くなりそうなんで一旦ここらで切りますか。
~次回につづく~