見出し画像

料理に名前をつけるということ

キッチンがどんどんスマート化する中、「レシピ」の存在はこれまで以上に 重要性を増しています。買い物の代行や生鮮品のデリバリーは「買えるレシピ(Shoppable Recipe)」によって成り立っているし、ミールキットのほとんどは、料理を指南するレシピとともに届く。「補助付き料理(Guided Cooking)」とでも呼ばれるスマート調理器具の多くは、レシピに合わせて火加減や調理時間を調整してくれます。他にも有り物の食材からレシピを提案してくれたり、機械が読み取れるレシピ(MRR)の汎用的なフォーマットが探究されたりと、その拡がりは今後も成長していくでしょう。レシピは非常に古典的にして、未だに、料理に関する知識を記録・伝達していくのに最適な方法であり続けています。

手慣れた料理人にとっては、こうしたレシピに固執した料理へのアプローチは、少々違和感を覚えるものかもしれません。日常的に食事をつくる人にとって料理とは、目指すべき形がはじめから決まっている単線的なプロセスではなく、臨機応変にこなしていくものです。もちろんレシピは重要だけど、そこに書かれているとおりに食材を揃えて分量を計るステージは、やがて卒業して行きます。レシピはあくまで参考であって、むしろそこから様々な派生形の料理を可能にするアイデア・ジェネレーターとしての役割を担い始めます。

そんな、人類と不思議な関係性を持ち続けるレシピですが、今回はレシピそれ自体ではなく、そのごく一部分についてのお話です。レシピの一行目に来る、ドキュメントの中で一番重要な情報:「料理名」に関してです。あるいはレシピとして受け継がれる料理とそうじゃない料理には、どういう差があるのか、そんなことを少し探ってみようかと思います。

料理をどう認識するか

手始めに、以下二つの料理を比較してみます。

左にあるのは、何の変哲もない「とんかつ」です。食べたことある人も多いと思います。多少の差はあれど、多くの人は味も見た目も想像がつくでしょう。下味をつけた豚肉のスライスに小麦粉・卵・パン粉で衣をつけて揚げたもの。たった四音のことばに、それだけの情報が凝縮されています。とんかつをつくろうと思ったらなら、検索すればレシピは無数に見つかります。

対して右側の料理。先日のコークッキング内の「ランチ・キャプテン制度」の中で、社員の一人がつくった料理です。あえて名前をつけるなら「ブロッコリーとゴボウのにんにく岩塩炒めプレート ・キューブパン添え」といったところでしょうか。その日たまたまオフィスにあった食材で取り繕って、メインのビーフシチューに添える一品として食卓に並びました。たぶん歴史上初めてつくられた料理だし、今後再現されることもおそらく二度と無いでしょう。この料理自体のクオリティやオリジナリティよりも、ここでは「とんかつ」との差に注目してほしいと思います。

もう少し例を見てみます。

リストAとリストBの明確な境界線は、多分また別の議論としてあると思いますが、なんとなく言いたいことは伝わるかと思います。あえて線引きするなら、その料理が単体の概念として一般的に認識されているか(辞書や百科事典に項目として存在するか)といったところでしょうか。もちろん、リストBの項目はリストAの項目に毛を生やしたディテールが多いだけという捉え方もできます。けれど、例えばあの日の料理をただの「野菜炒め」と呼んでしまうのは、少々暴力的にも思えます。

世の中には、何度つくっても美味しく完成する確立が高い、材料や調理方法の組み合わせの「パターン」が幾つも存在します。あまりに何度も登場するパターンなので、いつしか人類はそれらに名前をつけ始めました。それがリストAの料理の正体です。「牛肉とキノコのサワークリーム仕立てシチュー」をつくればそれは「ビーフ・ストロガノフ」になり、「ポーチドエッグとハムのマフィンサンド〜オランデーズソースかけ〜」をつくれば「エッグベネディクト」になります。

こうしたリストAの料理には、多くの場合、相当の誕生秘話が付随します。ビーフストロガノフは19世紀ロシアのパーヴェル・アレクサンドロヴィチ・ストロガノフ伯爵に仕えていた料理人によって考案され、伯爵の死後、彼を偲んで名前を受け継ぎました(諸説あります)。エッグ・ベネディクトは1900年頃にニューヨークに暮らしていたベネディクト夫妻が卵を使った新しい料理を要求した際にうまれた料理です(こちらも諸説あります)。

一方のリストB、こちらのほうがよりクリエイティブというか、散らかっています。このリストに乗っかるような料理を、僕たちは「生成的な料理(Generative Dish)」とよんでいます。使った食材や経た調理工程から料理名が「生成される」たぐいの料理です。ある種のプロクロニズムだとも言えます。

あの日のランチキャプテンは決して最初から「ブロッコリーとゴボウのにんにく岩塩炒めプレート」をつくろうと思ったわけではなく、おそらく、たまたま残っていたゴボウと、カウンターに転がっていたにんにくのかけら、冷凍保存してあったブロッコリーを見つけて一緒に炒めてしまえと思ったに過ぎません。あるいは味付けは後から考えればいいという見切り発車で料理を始めたのかもしれません。料理をする中で、味付けは「岩塩だけのシンプルなものにしよう」だとか、「さっき切ったパンと一緒に盛り付けてしまおう」だとか、即興的なプロセスの中でだんだん料理の最終的なかたちが編成されていったのでしょう。

リストBの料理も、ビーフストロガノフのように名前を与えれば、リストAに昇格することもできます。名前をつけることによって、料理の生存率は大幅に上昇します。しかし、それはかなりレアなケースで、多くの場合、生成的な料理は一期一会で終わります。

生成的な料理

もう少し詳しくブレイクダウンしてみましょう。「生成的な料理」とは以下の三つの要素を含んだ料理として説明できます。

1.「偶然」使った食材やアイテムから「生成的に」名前がつく
買い物に行く前、「きょうはブロッコリーとゴボウの岩塩炒めプレートをつくろう!」という発想に至る人は中々居ないと思います。あるいはレシピ本やサイトを開いてそのレシピを見つけることも稀有でしょう(無いとは言い切れませんが)。生成的な料理の多くは「名もなき料理」として生まれ、使った食材や調理法から後付で名前が付きます。

2.即興の料理のプロセスの中で最終的なディテールが決定する
料理開始前には大まかな方向性だけ決定して、残りの仕様は実際の動きの中で調整されます。岩塩炒めプレートの場合、食材に熱を通しながらキッチンの調味料類を見渡して味付けを考えていたことでしょう。最終的な結果に必然性は何らなく、スパイス類を加えてカレー風にすることも、バルサミコ酢を加えて酸味のある味付けにすることもできました。様々な可能性の中から、たまたま一つの選択肢が生き残ったまでで、岩塩を削り出す瞬間までは別様でもありえました。「どれでもよかった」と同時に「選択肢は必ずある」という確信もあったのでしょう。

3.「一期一会」の料理が生まれる
ほとんどの場合、その料理は一期一会のものとなります。しかし、だからといって全てが食べてなくなるわけではありません。料理中に得た発見(食材や味付けの意外な組み合わせ等)は経験として刻まれ、今後の料理にきっと活かされるでしょう。

料理名の呪縛からの開放

私たちは時に、料理に「唯一解」を求めてしまいがちです。餃子は三日月型でひき肉が入っていないといけないとか、ピザはまん丸でチーズが載っていないといけないといった具合です。そこには一種の「料理名への固着」があると思います。毎日の献立を考えるのが大変な原因も一部ここにあり、「何をつくるか決める =(頭の中の)料理名のデータベースから最適なものを一つ選ぶ」という構造になってしまいます。餃子、とんかつ、カレー、生姜焼き、魚の煮付け、と限られた料理名の順列になってしまうと、単調で、不経済的で、持続可能性にもかけてしまいます。

すべての料理が生成的である必要性はありません。「きょうはラザニアをつくる」と決意して、ラザニアのシートとトマトとひき肉とチーズをリストに書き出して買い物に行くほうが、ノープランで適当な食材を買い揃えてから何ができるか考えるよりもずっと効率的・経済的でかつおいしいものが出来上がるでしょう。より重要なのは、アクシデントや偶然性に対してオープンであることです。途中で新鮮で美味しそうなズッキーニに出会ったなら、それも一緒に料理してしまっても良いでしょう。満足行くひき肉がお店になかったならソイミートで代用したって良いでしょう。料理中にも、先日使ったスパイスが残っているのを思い出して、トマトソースをすこしインド風にしてしまってもいいかもしれません。「インド風ズッキーニ入りベジタリアンラザニア」の完成です。

レシピや理名に対して柔軟であること、変更や追加に寛容であること、「正解は無限にある」という心構えが、創造的に、(経済的にも環境的にも)サステナブルに料理する秘訣です。

ハレの日の料理、ケの日の料理

どうしてここまで生成的な料理にこだわるのか。その答えは単純であると同時に複雑でもあります。単純な方の答えは、生成的な料理は無限の可能性を秘めているということです。創造的に料理をすることで、新しくて、多様で、インスタ映えするような料理は底を尽きることなき生成されるでしょう。実際、コークッキングがワークショップ的に料理をする際には、こうしたクリエイティブな料理の発想を促す仕組みやツールを駆使して多様な料理をつくります。

でもそれ以上に僕らが興味を惹かれるのが、日常の料理です。私たちはすべての料理がエキセントリックで写真映えするべきだとは一切思っていません。そうではなく、生成的な料理の多くは、一期一会だけれど、それでいて、実に平凡です。ゴボウとブロッコリーのにんにく塩炒めなんて、ある種、ありふれた料理です。食材の在庫や料理人の体力、時間など、日々の状況や制限に合わせて柔軟に料理をまとめ上げる。これこそが生成的な料理の「真価」だと思います。写真映えしようがしまいが、日々の連続の中で生まれる平凡な料理の数々が、キッチンと食卓にいきいきとした多様性をもたらします。

※ この記事は筆者の英語版ブログ記事「The Idea of the Generative Dish Name」を元に翻訳・加筆・修正を加えたものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?