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仮面
池中蓮華 大如車輪 青色青光
黄色黃光 赤色赤光 白色白光
池の中の蓮華、大きさ車輪のごとし。
青き色には青き光、黃なる色には黃なる光、
赤き色には赤き光、白き色には白き色あり。
ひとりひとり色があり、その色で光ることができる。
そして、他者と比べて生きるのでなければ、
その色、その光は互いに邪魔することなく輝ける。
そうした有様こそが、本来の自由である。
「バラバラでいっしょ」
実は・・・
ま、自己紹介欄にも載せているのですが、
坊さんなんです。
だから、どうしても、「今日の言葉」を選ぶと、
仏教をはじめとする宗教的な言葉や
哲学的な言葉を選ぶことがあります。
で、今日の「今日の言葉」は「仏説阿弥陀経」ってお経の中の一節です。
あ、いやその説明する気はないです😅
ただ、なんじゃこの漢字の羅列?
と、思われる方に、一応、わたしの説明といいますか、
言い訳です😅
「今日の言葉」というのは、
もう8年くらい前から、
Facebookページに自分が毎朝撮った写真を載せるようになり、
それに合わせて言葉を、
なるべく、いっさい被らないことを目指て載せてるのです。
あ、気が付くと同じ言葉、選んでることもままありやす😅
どうしてもねぇ、
同じ人間が選ぶんで、
選ぶにしてもそこに趣味ってもんがあって、
目に付く言葉、
グサッときた言葉、
重なるのは致し方ない(言い訳)。
基本、自分が「できていない」ということを思い知らされる言葉です。
で、本題に。
30年ほど前、ある児童精神科の先生が講演会でこんな事例をはなしてくれた。
「小学生5年生の少年が、ある犯罪を犯してしまった。
治療をしていく中で、ようやく少しだけ心を開きだした。
そして彼は、
『先生、ぼくはいっぱい仮面を持っているんです。
お父さんと会う時、お母さんと会う時、弟と、友達と、学校の先生と、
合う人会う人、みんな違う顔で会うためにいっぱい仮面があるんです。
そしたら、ぼくは自分の本当の顔がわからなくなっちゃたんです。
先生、ぼくの本当の顔はどこにあるんですか?どんな顔なんですか?』
と、私に訴えてきた。」
そして、
「10歳の少年が言う言葉じゃない。唖然としてしまい、
その時は、わたしは彼に何も答えてあげることができなかった。」
そんなこととも語ってってくれた。
30年前で、すでに子供の心すらも、自由がなくなっていた。
いまはどうなんだろう?
という危惧もある。
が、それよりも・・・。
いったい、オレは、
自分の顔を見つけることができたのだろうか。
一度でも、本当の自分の顔と面と向かえたことがあっただろうか。
それじゃ、少年のように「仮面」を自覚できているのか?
いやそれさえもできていない。
「仮面」を着けている自覚もないし、
その「仮面」を着けている自分が、
本当の自分の顔だと信じて、疑うことすらもない。
バラバラでいっしょ
いっしょでバラバラ
バラバラでバラバラ
個性が見いだせない時代だからこそ、
右へ倣え、と、うるさい社会だからこそ、
個性を、自分の顔を、自分の色を、
執拗に追い求めていきたい。
ハグレることを恐れば恐れるほど、
ハグレることの大事に憧れていたい。
ハグレている振りをして、
イキガッている自分を恥じていたい。