解離性障害、HSPの私の自己紹介
初めましての方も
そうでない方も、こんにちは。
kotoneです。
内向型hspかつ
解離性同一性障害を患っています。
ここでは、私のここまでの経歴と
感受性について
お話しさせていただき、
それでも無理なく楽しく働くことはできるよと
お伝えしようと思います☺️
幼少期〜学生時代
幼少期時代から学生時代は、あまりよく覚えていないのが本音ですが、覚えている限りのことを綴っていきます。
嫌なことを嫌と言えなかった
私は小さい頃から、嫌なことを
「嫌だ」と言えない子どもでした。
母と父の機嫌を伺い、
やんちゃな妹を宥めすかして
母が怒らないようにすることが私の常。
母が気を使って
「手作りピザ(パン)を作ろう!」と
誘ってくれた時も、
本当は料理が好きじゃないから
やりたくなかった。
ここまででわかる通り、
私は家族にさえ素直な気持ちを
言えなかったのです。
学生時代、解離性障害が発症
小、中、高、専門と順風満帆とはいきません。
友達には恵まれたのかもしれませんが、
とにかく依存されやすい体質だったようです。
毎回週末はひとりで過ごしたかったのですが
友達が遊ぶ約束をしてきます。
それをどう断るか必死でした。
そして、依存は母にもされていました。
それは今もですが…。
母は父がいないと何も決められません。
そんなときは、すべて私によっかかる
展開が待っていました。
これは大人になり解離性障害に
なってからわかったことです。
この解離性障害は、1人の時間を欲しいが故に
友達の輪から外れてひっそりと時間を保つように
なってから、仲間外れにされることで
起こりました。
急に態度が変わるまわりのクラスメイト
昨日の友は今日の友。
そんなことはありえないと知ったのは
専門生のときでした。
クラスが1クラスしかない中での
仲間外れは、私を精神的に追い詰めました。
実技の授業の際、ペアを組んで施術の練習を
してくれる人がいない悲しさと孤独さ。
しかし話しかければみんな話してくれる。
でもすぐ会話を切りたがる…。
この違和感に気がついてしまってからは
どうしても学校が辛くなってしまいました。
恐らくですがhsp気質ならでは。
過剰に反応していたかと思います。
学校を中退、まわりにおいて行かれる苦しさ
とうとう追い詰められた私は、過呼吸が止まらず
頭の中には「自殺」の文字が浮かんでいました。
過呼吸を初めて起こすと「死ぬんじゃないか」と
いう不安が先に来るようですが
私は、「これで死ねるなら本望だ…」とさえ
考えていたのです。
今思えば軽率で恥ずかしい話ですが
当時はそれほど辛かったのをよく覚えています。
なにより、家族が私を受け入れてくれなかった
ことが強いです。
「うちの娘は病気なんかじゃない」
そう言いながら精神科には連れて行って
くれましたが、薬は飲ませて
もらえませんでした。
そしてもう一つ。
気がつくと私は学生じゃなくなっていました。
両親と先生との話し合いのもと中退が
決められていたのです…。
これにはしばらく納得いかず、癇癪を
起こしていました。本当情けない
子どもみたいな話です。
唐突の社会人、周りについていけない
急遽訪れた休養の時間。と言っても、
自室に寝かされて、半分軟禁状態。
解離性障害からの発作が起きた時だけ
リスペリドンを服薬され
寝かされて…与えられた食事と排泄をする
の繰り返し。
お風呂なんて入れませんでした。
入る気力がありませんでした。
それでも周りに置いて行かれている自覚が
あった私は求人誌をチェックして仕事を探す
ことに。
自室から出るには、働きに出れば
出してくれると思ったこと。
働けば程よい疲れでお風呂に入りたくなる
など期待したからです。
就職先は、理学療法士の学校に行っていたので
関連のあった介護士に就職しました。
評価が怖い
社会人として働き始めて初日からすでに
過呼吸が止まりませんでした。
そして周りの視線。
学校を中退している私はダメ人間だと
期待されていないと思ってしまっていました。
だからこそ、評価が怖かったのです。
他の介護士と比べられ、昇給などの
システムがある職場。
昇給なんていらないから、穏やかに
働かせてくれ…それだけが願いでした。
上司に嫌われていると感じる
私の担当している階の利用者様かつ
介護士を管理する上司や先輩に嫌われていると
感じたのは、入職してすぐに1人行動させられた
ことです。
入職説明会ではバディのように先輩がついて
指導してくれると聞いていたのですが
私にはそれがありませんでした。
今思えば理学療法士学校に所属していたことが
理由にあるのかもしれません。
しかし、それがネガティヴ思考の私に
追い打ちをかけました。
右も左もわからない。
施設の流れもわからない。
なんなら病気が完治していない中での仕事は
何も頭に入ってこない…。
だんだん心がすり減っていくのを感じました。
お客様のクレームの声がトラウマに
私の担当ではなかったのですが、ひとり、
とても芯の強い利用者様がいました。
そのひとはこだわりが強く、気に入らない
介護士は部屋に入れてくれません。
そして何人もの介護士が
部屋を出禁になっていました。
この利用者様の怒号といったら。
からだに電流が走るみたいに
私はいつも近くにいる際には体を震わせて
大きな声が出ないことを祈っていました。
あと言うと、この方のつけているコロンの
匂いもダメだったので本当に苦手なひとでした。
電車に乗れなくなった
職場への通勤は電車でしていたのですが、
ある日のこと、電車に乗るのすら
できなくなりました。
息ができないのです。
苦しくて途中何度も下車。
そしてとうとう勤務時間に間に合わなく
なる事態にまで発展したのです。
それくらい、職場に対して
対人関係に対して
何もかも嫌になっていました。
適応障害だと診断される
ここで通院していた精神科にて、
環境適応障害だと診断を受けました。
解離性障害を患っていたので、その症状も
出ているとも。
私は全く自覚がなかったのですが、
複数の人格が代わりに
仕事の間頑張ってくれていたのです。
精神科では、職場復帰は
まだ早いと言われました。
私は泣き崩れました。
社会とのつながりが途絶えること。
どんどん友達が、知人が離れていくこと。
結果、対人恐怖症とも診断されたのです。
人生の転機
こんな私にも、人生の転機、ターニングポイントがありました。
それはとある本との出会いです。
HSPと本との出会い
HSPという言葉を知ったのは、
息子に読み聞かせる絵本を本屋さんに
探しに行った時のことでした。
なので10年前のことです。
※これまでは独身で結婚もまだでした。
「繊細さん」「HSP」
というテーマの棚があり、
引き寄せられるように近づき本を手に取った私。
そしてそこには思わぬことが書いてありました。
HSPは解離性障害に発展しやすいとのこと。
驚きました。
そして本を読めば読むほど、ますますこれは
自分のことだと思ったのです。
私、HSPだ
私、HSPだ。
そう実感した途端、安堵と探究心が
芽生えたのを今でも良く覚えています。
そしてここでまたネガティヴ思考の発動。
この気質があったら、仕事も人間関係も
苦労するのではないか。
そして医師はまだこの気質のことを認めていない
そんな時代背景でした。
今でこそ認知度が上がりましたが
当時はなかなか理解してもらえなかったのです。
自分を活かせる好きなこととの出会い
私はずっと公募を続けていました。
自分の好きな作品を描き、応募してこれまで小説は最終選考、佳作入賞。
詩集はKindleになっています。
そこで好きな公募が仕事につながるとは思いもよりませんでした。
できることを探した結果「〇〇」だった
できること…それは
それは文章を書くことです。
私の中で何かが弾けました。
そう前向きになれたのは、私は子どもが
生まれてから物語を書き続けていたからです。
私の感性にハマる作品がない…
それなら作ればいい。
そう考えた私は、ずっと文章と
関わってきました。
そしてそれが仕事になると知ったのは
公募仲間がライターをしていたからです。
文章を書く仕事なら、わたしもできるかも…
そう思いクラウドソーシングサイトに登録。
タスク案件から徐々に実績を積み、
4年目で収入が安定するようになりました。
無理せず在宅で6桁を突破
webライターとして稼働を始めて、
最初の山場はありました。
小説とは違い、わかりやすい言葉や型を
覚える必要があったからです。
ですが逆を言えば、中学生くらいの子達が
読んでもわかる文章を書ければいいのだと
考え方を切り替えた途端、
するすると文章が書けるようになりました。
すると不思議なことに、熱心に
文章を書いていたら気がつくと月の収入が
6桁超えるようになったのです。
苦に思うことはありませんでした。
納期もクライアントに相談できる
環境に恵まれていたので、
そのおかげもあるかと思います。
自分の体調にあわせて仕事の調整ができる
現在は母の介護が始まったので
仕事をセーブしています。
そして自分の体調。
あまり今は芳しくないため、その所以もあり
実際のところは6桁安定して稼げてはいません。
その代わり、大好きな公募に応募する
作品作りに力を入れようかと。
そうしなくては、解離性障害とHSPの
私の感受性のフラストレーションが
たまってしまうと思ったからです。
ライターの仕事は、自分のライフスタイルに
合わせて調整できるところが嬉しいです。
似た苦しみを味わっている人の力になりたい
見出しの通りです。
私は今、夫の支援もあり子育てをしつつも
介護、仕事、公募を自由にできるように
なりました。
だからこそ、伝えたいのです。
どん底を見てきたからこそ、
家族の理解がないことこそ、
大丈夫だと伝えたい。
だから、諦めないでぜひ一緒に
やっていきましょう。
ご相談があれば、ぜひご連絡くださいね。