人間が不得意なニンゲン
人と生きていくって難しい。
そう思ったのは学生の頃だった。校門をくぐり足を踏み入れた時、なんだか周りに戯れている人たちはちゃんと人間って生き物なのに、私だけは別の生き物の気がした。
専門学生になり、勉強はできるのに対面コミュニケーションが苦手すぎて意思疎通にややズレがあった。当時の友人に言われたのは、
「すうちゃんって、何が好きなの?」
好きなことなんて思い浮かばない。強いて言えば勉強か。…いや、勉強しようと思って読むんじゃないテキストの読書か。当時は学校以外はアルバイトで時間が埋まっていたから、趣味なんてものを楽しむ時間もなかった。
だから本当にわからなかった。
私は何か好き?
そんな私の誕生日プレゼントは、みんなからもらうとなぜこれなのか…と言うようなものが多かった気がする。私、くまのキャラクター好きって言った?木目調のアクセサリー身につけてたことも、ほしいと見たこともないのになぜこれ?
疑問は尽きなかったけど、思えば私が自分のことをわかっていないのに周りがわかっているわけなかった。
そんな過去から現在、私は好きなことがはっきりしても伝え方が下手くそで相変わらず人との意思疎通にはズレが起きている。
原因は2つ。
相手の顔色を伺うから言いたいことが一度喉の奥に引っ込むこと。もうひとつは、自分の言葉を伝えるのが苦手なこと。
どちらも共通するのは、「どう認識されてしまうのか」わからないからだと思う。
伝えたい言葉は、必ずして伝わった言葉と同じとは限らない。だからこそ、細心の注意が必要で、相手に対して伝え方を変えないといけない。
でも私はその作業にとてつもないエネルギーを使う。そして結果、途中で力尽きてしまうのだ。
私の人生、言葉の引き出しがあってもなくてもうまく人とコミュニケーションが取れないできている。あの、瞬時に言葉を脳内に起こし発生する時間の速さについていけない。
それは、パートナーと出会って家族になっても同じことが言えた。
確かに誰よりも近しい存在ではあるけど、悲しきかな、一通り育児に関してはパートナーは無頓着だ。遊び相手が育児のメインだと思って誇らしげにされるのを見ると、思わずため息がこぼれる。違いますよ、と。
先日は息子にプログラミングを学ばせたいといい、やっている場所を調べてスマホを見せてきた。家から30分程度の片道。授業時間は45分。…私は言う。誰がこの送迎するんですか、と。
今の時点で2つ習い事をしている息子。その送迎は当然私なのだけど、体調が思わしくない時はやはりしんどい。なぜ世のお母さんたちは子どもが複数いてそれぞれの習い事学校行事を把握して送迎また参加できるのだろうと不思議に思う。尊敬すらした。
そこにまた、私は人間としての劣等感を受けた。親としても未熟。成長していないのかもしれない、と思った時は息子を寝かしつけした後に啜り泣いた。
人間って難しい。
自分が本当に人間という括りの生物なら、かなりの劣等者だ。そんな私に、人間と上手に群れなさい、なんて無謀にも程がある。
同時に思うのは、人間の複雑な心の存在だ。
私だって末端といえど人間なのでそりゃ持ち得た心。しかし複雑すぎて難解に感じる。
難解な心と難解な心が隣り合わせに立った時、果たして人間はうまくやれるのか。やれるものなのか。…私は吐き気がした。なにそれ、無理。思わずこぼれる本音。
察して察する心理戦とかごめんだ。
絶対にやりたくない。
しかし母親になってからこの心理戦は日常に当たり前に存在している。恐怖だ。
頼りにしたい。
頼りにされたくない。
混同する気持ちに泣きたくなる。
私は、対等に生きられるひとのそばにいたい。
それだけなのに。