ちんちん短歌2000首作った記念に「楽しい」と、へらへらして言う
私はちんちんなのですが、ちんちん短歌というものを作り、それがついこの間、2022年10月28日に、2000首に到達したので、自分の自尊心を高めるために、自分をほめnoteを書きたいと思います。褒めェ。
おれは、えらいぞ!
おれはちんちん短歌をたくさん作った! おれは、えらい! えらい!
クオリティはさておき、数を作ったという事実! 事実! 事実がおれを救う! 2000も作るなんて、えらい! 数という事実! えらい! 自尊心だ! 自尊心だ! 薬物も酒も推しに金も使わず自尊心を回復だ! なんておれは、えらいんだ! ばんざいだ!
自尊心高めタイムは以上です。
これ、本当、短歌や俳句、川柳といった短詩形のいいところだと思うんですけど、とにかく一首、一句の「一応の完成」が早い。はやければ五分で「作った」といえる。
小説に比べれば、「一応の完成」のハードルがとても低いから、作ったという実感が得られやすい。それにこういう創作は「一応の完成」を何回経験したか、で高められることが多いと思うのです。
奴隷労働が当たり前になって、絶望しても共感も同情も得られなくなった現代で、わずかな時間でも「一応の完成」に至れる形式って、とても良いと思う。子育てとか介護とか隷属的労働って、本当に時間もなく、わずかにでも空いた時間は休憩……ではなく、人間らしさの尊厳の回復のために使わなくては、生命体として生きることすらもできない。
その、瞬間を狙って、短歌とか俳句川柳は、作ることができる。そして「一応の完成」を見ることができる。
こうして作られたそれらは、自分自身の尊厳を回復させてくれる。
……。
いや、「一応の完成」であって、真の完成――「他者に見せ、適切な批評を受け、推敲し続ける」に至ってないから、これはきっとまだ文学・芸術たりえていない、とは思うけれど。
そんなことをしている余裕は、現代のプロレタリア達には、ない。
それでも「自分は他者につながれるかもしれない何かを作れた」という事実が、人間の尊厳を回復するんじゃないかなあと思った。
で、わたし、2000。2000! えらい!
この、数と、事実に、癒される。
クオリティは正直分からない。他者と交流をしていないから、自分の作ったものがどれだけの価値があるかなんてわからない。品質は、他者(内なる他者も含めて)が定めることであり、自ら決めるものでもない、という考え方をしている。
だが、「作った」という事実は、普遍だ。
その普遍に、ありがたいなあ、がんばったなあというのがあり、そして、「数を作れた」という自己達成が、「この作った詩歌たちが、自死以外で俺を奴隷生活から解放してくれるかもしれない」という希望をもたらしてくれるなと思っているのです。
詩歌の創作の希望をこんなところに感じている。
それは上の世代から見れば、随分と貧困で、よくなく、詩歌作成に純粋さを感じられず、汚いものに見えるかもしれない。
だって、作った詩歌の価値を、その中身ではなく「作ったという事実」に見出すって、なんだろうなあ、「貯金額だけが正義」「金持ってるやつだけが人間として信用できる」みたいな論法に聞こえるだろうし。
でも実際そんな感じかも。
俺、文学的価値とか、頑張って分かろうとしたけど、やっぱりわからないところ多いもの。
とにもかくにも、短歌作るのはとても楽しい。数が増えていくのが楽しかった。それは、預貯金が増えていくのを楽しいと感じることにも似ている。
無理やり数を増やすため、いろんな歌集を読み始めるようになった自身の変化も楽しい。短歌評論も読み始めた。とても楽しい。
特に『天才による凡人のための短歌教室』(木下龍也 2020 ナナロク社)を読んでから、短歌作りがとても加速した。
「作歌を日課に」「たくさんつくれ」という言葉に従った。おかげでとても楽しく、たくさん作れた。
ただ木下さん自身、情熱大陸のインタビューかなんかで「作ることは楽しくないです」みたいなことを言っていたのが気になる。
なぜなのか。
こんなに楽しいのに。こんなに日常の労苦のなぐさめにもなるのに。作ることで、少しでも死にたさから逃れられるのに。
もしかしたら、俺は何かとてつもない思い違いをしているのではないか。楽しい、と感じているようでは、まだまだ、だめなのか。
俺がやっているのは、本当の意味での詩歌の創作でもなんでもなく、ただ疲れた人が、疲れ切った頭で、言葉を垂れ流して、形式にそって整えて、へらへら笑っている現実逃避であり、現実と切り結んでいない――「他者の批評に耐えて推敲し、公共・社会と接し現実の改変を試みようとすること」をしていないから、楽しい、なんて、口にできているのだろうか。
とりあえず今は、ちんちん短歌2000首作った、の余韻に浸る。
これらの発表の方法はゆっくり考えよう。
次の文フリにこれらは出しません。というのも、今、賞に二つほどだしていて、80首ほど未発表にしなくてはならず。
その次の5月の文フリには、本の形式にするかはわかりませんがなんかにします。
その発表形式も気になっているんだよなあ。上記の『天才による~』の本の中では「短歌は歌集になりたがっている」という章もあったが、本当だろうか。本当に短歌たちに聞いたのか。アンケートを取ったのか。エビデンスは、政府が発行した白書にそんな統計があるのか?
短歌の中には、「本なんて、オワコンなんかにまとめられたくないっす。きついっすそういう、何か歌集に所属しないと存在できないみたいなの」という短歌や「俺は……俺のことが分かってくれる人の心の中だけに生きてくれればいいので」とか「ギャラが出ないなら別に出ないっすよ。正直、生きがいとか、そんなキラキラしたもの、とっくに、ないんで(苦笑)」みたいな、そういう……大学二年生みたいな短歌たちもいるんじゃないかなあ。
歌集という形式について、思うところもあり、それは今度はページを改めて考えてみます。
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