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小説 ちんちん短歌・第五話『舞って死ぬ』
春日を旅立って、建はさっそく病気をした。
水あたりだった。
旅立ってまだ三日だった。昨日まで、まったくそんな感じではなかったのに、たった三日でこうなるのか、と思った。
本当、動けない。脚が震えている。
だが、移動しないと。
街道には何もなかった。道しかない。
マイルストーンが5里(ヤマトの標準単位でいえば10キロくらい)ずつ積まれているくらいが人工物って感じで、引き返すと言っても、人里には徒歩で三日かかるという事で、このお腹の痛さと冷え、足の震え、顔のひきつりでは、とてもその引き返しには耐えれないのだろう。
座ったら、もう動けなくなって、死ぬのだろうなと思う。
ここで死んだら、家持の言う通り、頭の中にある短歌たちは、誰にも受けてもらえずに死ぬのだろうな。
「たまきわる……いのちはしらず、まつが、え、を……」
思わず口を突いて出たのは、覚えていた短歌だった。
旅せよと、建に命じた大伴家持の作った短歌だ。今はただ、覚えた短歌を口にすることで、耐えている。
頭の中の短歌、出したい。出してここで、形になればいいのに。その形となったものを、なんでもいい、なんでもいいから、人工物にぶつけたい。人に。他人に。そう、他者にぶつけたい。
でも、何もなかった。ヤマトの道は、人が、ただ草むらに踏み入り、その地を踏み固めただけのものだった。では、その道は、人工物か。他者たりうるのか。
「むすぶこころは、ながく、とぞ……おも……」
地面に、道に言葉が垂れていく。
下痢も出た。
水みたいな便が、言葉より先に道に垂れ、汚れる。
つらいなあと思った。
辛い以外、何も考えられない。俺はいままで、短歌の事、染め部での事、家持の事、百済に産まれてヤマトで育ったこと。ずっとずっと考えてきたのに。
「死ぬよ」と家持に言われ、思わず「死にません」と応えてしまったこと、「死ぬんだ」と言われてしまった事。その意味をずっとずっと考えてきたのになあ。
ついに建は、しゃがみ込んでしまった。
下衣は、便で汚れてしまったので、いったん脱いでいる。そのため、しゃがみ込むと、ちんちんが道に触れた。
ちんちんが地面についたとき、建はもうだめだと思った。そして、だめになると、人は地面にちんちんがつくんだなとも思った。
死ねないのになあ。
……ああ、ちくしょうだなあ!
死ぬ直前に、俺はこんなこと思うんだなあと、感心した。自分を背後から見、その姿を見てそう思っている。あ、てことはつまり、ああ、いま、幽体離脱してるんだなー。やっぱり死ぬんだなあ。
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死ぬ前だから、自分が短歌を口にし、舞っているところを見たいなと思った。自分が短歌をこの世にあらわすとき、どういう風になっているのか。
死ぬ前に、せめて一指し。俺は俺を、見たい。
俺。舞ってくれないか、頭の中に入っている、今、一番、やりたい短歌。
人生最後の短歌は……なにがいいだろう。
先輩短歌奴隷たちから学んで、繰り返し習った短歌がいいか。やっぱり家持の短歌になるかなあ。……いや、別に、あいつの事、まあ主君だし、尊敬はしてたけど、近くに侍ると、人格としてだらしなかったり、奥さんに少しパワハラなところもあったり、若者にセンスで競おうとしてダサかったりする部分あるし、そんなやつの作った歌を、人生最後に舞う短歌にしたくねえんだよなあ。
でもまあ、いいか。
建は、足を、ゆっくりと、延ばし、立ち上がる。
ちんちんは出したままである。力なく垂れるちんちん。
だがそこに、血液を詰め込むイメージ。
ちんちんに何かが溜まっていないと、人は、舞う事はできない。すくなくとも、短歌を口にしていい存在にはなれない。
尻に風を感じる。冷気を感じる。尻が下痢で湿っているから、そう感じるのだろう。
感じないよう、ちんちんと丹田に、血を、――気を、集める。呼吸する。長く、息を、吐く。
そして、もう一度、短歌を。
「はるまけて、ものかなしきに」(春儲而物悲尓)
声は細いが、今度はしっかりとした声で、真っすぐ、声を正中に発した。
道にだ。
道の向こう。
この真っすぐな道の先へ、他者へ、「言」を放つ。
短歌奴隷の基礎の基礎だ。「言」を、真っすぐに、しっかりと飛ばすことは。
「さよ、……ふけて」(三更而)
「さよ」で、足を鳴らす。
静かな踏み込みでいい。この足で、建は夜を表現した。
風が止む。
建を中心に周囲300メートルは力場となって、そこは一時的に、「夜」になった。
優れた表現者は、周囲の天候を操る。
建は今、短歌で「あめつち」を動かしている。
「はぶき、なく、しぎ」(羽振鳴志芸)
手を動かす。
右手は、鴫。その羽そのものを表し、手を地の道と水平にし、しだいに、ゆらりゆらり、「羽振き」を表す。
左手は天に手をかざす。格調高く、「鳴く」。
その「鳴き」は、「しぎ」のものであり、しかし「しぎ」ではない。短歌の中の、「主体」と呼ばれる主人公なのか。はたまた、この歌を作った大伴家持か。いや、今この短歌をうたう、我、そのものか。
すべてであり、そうではない。太極陰陽のような、主たるもの。それは、今、建の左手により、「鳴」き、になる。
「たが」(誰)
誰が。
舞う建が、背後で見ている建に向く。
上背を180度回転させる。
「たにか」(田尓加)
正しくは「田にか」、である。
田んぼに棲んでいるのか、という意味のはずだが。
ここで建は、「他にか」というシニフィエで、「たにか」という音を現した。
あえて短歌を、誤読する。「田」を「他」と。音は同じであるとはいえ、明確に、違うものとして、建は歌った。
演じ手の解釈が、ギリギリ、作者である大伴家持の歌から、いま、はみ出した。
「すむ」(須牟)
結句。この言葉を、トン、と、建は自分の足元に落とす。
この「すむ」も、本来は「住む」。
鴫がどこの田に住んでいるんだろう、という意味を成すために選ばれた言葉だったはずだ。
だが建は、この「すむ」を、「澄む」であり「済む」であり、「清む」、のシニフィエを抱かせて、発話させた。
そして最後に、重心と言う名の「心」を、他者に投げかけるのではなく、自らの足元、やや前方に置くことで、この短歌の表現のクローズとする。
歌は終わった。舞い終わった。
誰も見ていなかった。
演者の圧は消えると、風がまた、建の尻を通り、建のちんちんを揺らした。
待っている間、建のちんちんは一切揺れなかった。それだけ、気血をちんちんに集めていた。それでいて、勃起しているわけではなかった。
こうして建は、自分の舞を、はじめて見た。
結句の「たが、たにか、すむ」の解釈は、やりすぎかなとも思った。
あまりにも、私性を入れすぎている。自分の今の状況を、気持ちを乗せすぎだ。
特に、「田にか」を「他にか」と解釈して舞うのは、歌の原意を曲げすぎている。
あーあ。短歌奴隷として、そういう事をやっちゃいけないんだよな。
でも、一度やってみたかったし、学びて時にこれを習った時、しっくりくる解釈だったから、やった事には後悔はない。ないけど……。
でも、これを経た後、またこの短歌を舞うときがあったら、その時は、ちゃんと「田にか」と、音に逃げないで、歌の意通り、ちゃんとやりたいなあ。
建は、視界が徐々に狭まっていくのを感じた。風の音が、ごわごわと、耳鳴りのようになっていくのがわかる。
足の先から感覚がなくなり、建はやがて、膝を折り、そのまま前のめりに倒れる。
下痢が、最後の力を振り絞って、尻から垂れる。
これが出尽くしたら、俺は終わるのかなあと、遠くなる意識の中で尻にうんこのぬくもりを感じながら――建の意識は、遠のいていった。
春儲而物悲尓三更而羽振鳴志芸誰田尓加須牟
春まけてもの悲しきにさ夜更けて 羽振き鳴く鴫 誰が田にか住む
(大伴家持)
(つづく)
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