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【小説】大桟橋に吹く風 #9 パリの寝床

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#9 パリの寝床

男がRestaurant -愛-で働き始めて2ヶ月が過ぎた。男はパリにいる。そして黙々と仕事をしている。

メインの仕事は皿洗いや料理の盛り付け補助だが、買い物やスタッフの送迎、経理関係の雑務で車を走らせることもある。

もちろん、京子のことは相変わらず想っている。

男はレストランの従業員ともすっかり打ち解け、休憩中にはこれまでの旅の話や冗談を言ってみんなを笑わせた。

男は、京子から旅の話を直接聞かれることもあった。

どうしてこの人は一人で海外を旅しようと思ったのか、京子にとって不思議で仕方なかった。

(私には一人で海外放浪なんて恐ろしくて絶対にできない...)

京子はそう思うのだった。ただ、だからといって男から旅の話を聞くのは嫌いではなかった。むしろ、自分は怖くてできないと思っているからこそ、違う世界を生きている人のようで魅力を感じるのだ。

男はレストランでの仕事が終わると、同居人のいる自分の家に帰った。男はもう”旅人”ではなかった。なぜなら、そこには”日常”があるからだ。

パリにやって来たばかりの頃は、しばらくホステル住まいをしていた。

最初に泊まっていたのはサクレクール寺院のそばのホステルだったが、オペラ通りにあるRestaurant -愛-で働けることになった後は、なるべくレストランに近い所にあるホステルに移った。

そこはサント・トリニテ教会の脇道を入った場所にある、日中でもあまり日が当たらないような安宿だった。部屋は2段ベッドが置かれた12人部屋のドミトリー。かろうじて空いていた上段ベッドは、天井が迫るほど近くて息苦しかった。

滞在中は宿泊者の入れ替わりは多かったが、8割以上は常に埋まっていた。1人で泊まっている者が圧倒的に多いなか、2、3人組で泊まっている連中もいる。彼らの会話は部屋の中でよく聞こえてきたが、フランス語や英語でない言葉を話していることも多く、男には何を言っているかさっぱり分からなかった。

男はルームメイトと挨拶を交わすくらいはしたが、会話をする相手にはなかなか恵まれなかった。

滞在初日にはもう既に2段ベッドの下には先客がいた。口数の少ない陰気なオランダ人で、生気のない老いぼれた男だった。

初日、仰向けになって目を開けていたその老いぼれ男に挨拶をしたが、軽く右手を挙げただけで表情をピクリとも変えず、後は何も言わなかった。何だか不気味だった。

歳は60代くらい。口や顎には白い髭をたっぷり蓄え、顔を見るたび眉間にしわを寄せて険しい表情をしている。旅行者同士の交流を深めようと思うところだが、その話しかけづらい雰囲気に嫌気がさしていた。毎晩、その老いぼれ男の様子を窺いながらベッドの梯子を使うのだ。

実際、この老いぼれ男が本当にオランダ人かどうかは定かではない。ただ、ベッドの脇に置かれた薄汚いベージュ色のリュックサックに、オランダ国旗の小さなピンバッチが付いていた。だから、勝手にオランダ人と見なしていただけである。

それは、ホステルに泊まりはじめて5日目の朝。

まだ外も薄暗い早朝、ベッドの下で荷物をガサガサとまとめている音が聞こえていた。

やがて男が目を覚まして2段ベッドから降りると、老いぼれ男の姿はもうそこになかった。

(ついに旅立ったのか...)

男はベッドの隅に綺麗に畳まれたベッドカバーを見た時、肺に溜まっていた空気を全部吐き出した。

これほど近い距離で数日を共にしたにも関わらず、結局あの老いぼれ男の素性を知ることはできなかった。

ちょうどその日の昼過ぎ、男にとって転機が訪れた。老いぼれ男と入れ違いで、黒髪の清潔感ある好青年が同じドミトリーにやって来たのだ。

昼過ぎまでパリの街をぶらぶら歩いてホステルの部屋に一度戻ってきた時、いつもの2段ベッドの場所でその青年がリュックサックを降ろしていた。

異国において、同じ色の肌や髪をしている旅人同士が不意に対面すると、不思議な力が働いて自然とお互いが惹きつけられる。

男は同胞という期待も込めて、その青年に英語で話しかけた。

「Hi! Where are you from?」

そう聞かれた青年は、愛想のいい表情で答えた。

「Hi! I'm from Japan!」

「ジャパン」という言葉を聞いた瞬間、男は喜びが爆発した。そして、すぐさま母国語で青年に声を掛けた。

「日本ですか! 僕も日本です」

「おぉ!良かった!ひょっとしたら日本人の方かなと思いました!」

ここ数日間、男はこの宿でまともな会話をほとんどしていなかった。それがこのタイミングで同胞に出会えたのだ。

この無上の喜びや感覚は一体なんだろう。言葉にするには難しい感情だ。

青年は男より1歳年下であった。青年の名前は、陽一といった。留学生として飛行機でパリにやって来たという。欧州サッカーチームのユニホームにジーパン、リュックサックが一つだけという軽装である。

今朝ちょうどパリに着いたのだが、陽一はまずアパート探しから始めるという強者だった。今日の午後から不動産屋に行くのだという。

男は陽一からその話を聞いた途端、いよいよ興奮が抑えられなくなった。

男は、先日オペラ通りの日本食レストランに飛び込んで働くことになった経緯や、ホステル住まいでは金銭的に厳しいという事情を打ち明けた。それを聞いた陽一は、発狂するかのように驚いた。

家がまだないという共通する事情を互いに確認し合うと、陽一はすぐ一つの提案を男にした。

「それなら一緒に部屋を探して、もし良い所があればシェアしませんか? 僕は少なくとも半年以上はパリにいる予定なんです。その後はイギリスやアイルランドにも足を運ぼうかなって思ってますよ」

そんな陽一の親切な提案に男が乗らないはずがなかった。

二人は意気投合すると、さっそく家探しのためにパリの街を歩き始めた。

数日後、二人はモンパルナス墓地がある14区で目玉物件を探し当てた。

その物件は、メーヌ通りから一本横に入ったサブリエール通りにある6階建てのアパルトマンだった。一週間以内に、ちょうど5階の一室が空くという。広さも若い男が二人で住むには申し分なかった。

パリにあるアパルトマンの多くは、すでに築80年から100年近く経っている古い建物だった。だが男にすれば、決まった寝床があるだけで満足だった。

陽一との幸運な出会いをきっかけに、男はこうして旅人からパリに”住所”を持つ者に一転するに至ったのだ。

***(#10へつづく)***

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。毎週土曜日に小説は投稿しています。

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