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【小説】大桟橋に吹く風 #6 昼下がりのオペラ座で

【#5 冷静と興奮が入り混じる場所】はこちら

#6  昼下がりのオペラ座で

オペラ座前の広い石段に男は一人で座り込んでいた。

少しずつ冬の寒さが和らぎはじめ、時折、春の気配を感じる風が強く吹いている。その度、すっかり伸びきった男の長い髪がなびいた。

シベリア鉄道でヘルシンキに着いた日から3ヵ月が経とうとしていた。そのうちの2ヵ月間はデンマークのコペンハーゲンで皿洗いをしていたが、それからさらにドイツへ下り、ヒッチハイクで旅を続けながらついにパリまでやってきた。

が、パリについてそうそう旅費がまた危うくなっていた。今朝、男はモンマルトルの喫茶店で人参ケーキとコーヒーを口に入れただけだった。

(腹減ったなぁ...)

パリ18区に足を踏み入れたのは一昨日の晩だ。サクレクール寺院からほど近い、裏通りにあったホステルに泊まった。翌朝、ロビーでたまたま紀子という女性と居合わせ、束の間の語らいを楽しんだ。男がこの旅で初めて出会った日本人女性である。その紀子が絶賛していたのが人参ケーキだ。このパリでも食べたという。

「私、人参は嫌いやけど人参ケーキはめっちゃ好きやねん」

確かに食べてみると、思っていたより人参の味は強くない。口の中で味わいながら食べると、スポンジから人参の甘みをほのかに感じる。やがて、シナモンの風味が口の中で広がっていった。

(これは美味い)

コーヒーとの相性も良く、男は少しだけパリジャンの気分を味わった。

まさかパリで同郷の女性に出会えるとは思っていなかった。

話を聞けば、紀子は社会人だった。今回、少し長い休暇をとって旅をしているのだという。自分よりも少し歳上に見えたが、それだけ男よりも落ち着いていて旅慣れた雰囲気が漂っている。

紀子はこれから列車で南仏のバイヨンヌまで行き、そこからバスを乗り継いでスペインへ行く。カミーノ・デ・サンティアゴと呼ばれる巡礼路を歩いて旅するのだ。

「私は3回に分けて歩こうと思ってんねん。今回の旅がその1回目やで」

800kmというその長い巡礼路を一度の旅で歩き通す者もいるらしいが、紀子は仕事を辞めずに休暇を利用しながら3回に分けて歩く計画を立てたのだ。

男はそれを聞いて羨ましく思った。ゴールがある旅もまたいいものだ。

「僕はほっつき歩いてるだけですわ」

「ええやん! それも旅ちゃう?  私もこの2日間、パリをほっつき歩いたで。ガイドブックとかあんま持ち歩いてへんし。そのせいでえらい目にも遭ったけど。でも一人旅ってやっぱ好きやなぁ」

男は、紀子の言葉の節々から旅をありのまま楽しんでいるように思えた。

それからまもなく、紀子は列車の時間があるからといってスペインへと旅立っていった。別れ際、男は異国を旅する同胞に声を掛けた。

「いい旅を!」

「ありがとう! お互いにいい旅を!」

オペラ座前の広い石段には、男と同じようにたくさんの人が腰を下ろしている。家族連れが多い。若いアベックも何組かいる。

さっきから頻りに腹が鳴っている。周りにはこれっぽちも聞こえてないだろうが、男にはそれがとてつもなく響いている。

(この石段にいる人の中で、俺はきっと一番腹が減ってるだろう)

男はそんなどうでもいい自問自答をした。

現実は何も変わらないことくらい男も知っている。だがこういう時、何でもいいから自分に対して”言葉”を投げかけたくなった。時に自分自身を励ますような言葉を。

今朝は紀子のような日本人と出会う幸運が訪れたが、たった一人で外国を旅していると、ほとんど誰とも口を聞かずに一日が終わってしまう日もある。そんな時は自分自身と”会話”をするのだ。

だがこれも悪くない、と男は思う。きっとスペインに向かった紀子も、自分自身と向き合いながら旅を続けてきただろうし、これからもきっとそうだ。

ふと、男は空腹しのぎにこれまでの旅を回想した。

2ヵ月ほど前、雪が降り積もった真冬のノルウェーでの夜を思い出した。

フィンランドのヘルシンキに着いた後、ノルウェーのベルゲンまで転々と列車を乗り継ぎながら旅をした。

ベルゲンという港町は居心地が良かったが、そこから何を思ったのか、今度は北欧のさらに”北部”を見たくなった。スウェーデンのストックホルムから北へ1600km、ノルウェーのナルヴィークへ向かった。

朝から夜にかけてずっと列車に乗っていたが、飽きることはなかった。

車窓から広大な森や大小さまざまな美しい湖が次々と目に迫ってくる。湖畔には三角屋根から煙突が飛び出した、赤と白を基調とした可愛らしい木の家がぽつんと建っていることもあった。

夜もまた良かった。無数の星が輝く澄んだ夜空に、オーロラが揺らめいていた。列車に乗っていることなどつい忘れてしまった。

終点のナルヴィーク駅で降りた時、凍てつく寒さが襲ってきた。もう夜も深い。

男は少し後悔しながら、予め調べていた宿に向かって歩いていった。ぼんやりと暗い住宅地には、赤、黄色、オレンジといった明るい色の家々が建ち並んでいる。屋根や道路は、ほとんど真っ白な雪に包まれていた。

やがて、男は宿に着いた。看板もある。窓の外から暖色の明かりが部屋を照らしているのが見えた。男は安堵すると、ドアをノックした。

「コンコン」

「・・・・・」

「コンコン」

「・・・・・」

応答がない。結局、いくらノックしても応答がなかった。

(明かりがついているのになんでや)

男は辺りを見渡した。宿のすぐ脇に置かれた木のベンチを見つけると、そこで仰向けになった。

頭からダウンジャケットのフードを被り、空を眺めた。満天の星空の中にほのかに輝く月が綺麗に見えている。

その月明かりをぼんやり眺めているだけで何だかほっとした。ぎらぎらと輝く眩しい太陽とはまた違う存在感がある。時に太陽は眩しすぎてじっと見ていられないが月は違う。誰かを見守るようにしてそっと地上を照らしている。

(もしかしたら、太陽より月のような女性が好きかもしれない)

男は寒さのせいで頭がおかしくなったのか、とっさにそんなことを思った。

薄暗い朝方、年配のおじさんが中から出てきた。宿のオーナーである。ベンチに横たわった男に気が付くと、目を丸くしながら驚きの声を上げた。

「おい! こんなところで何をやっているんだ!」

「・・・・・」

男はその声に気付き、閉じていた目をうっすらと開けた。しかし、頭がぼんやりしている。男は半分寝ぼけながら昨晩ここに着いた時のことを短く説明した。

「寒いだろうに。さぁ、すぐに中に入りなさい!」

男はオーナーの肩に手を掛けながら中へ入った。

「ここは宿とは別棟で、夜は誰もいないんだよ。防犯の為に灯りだけつけてるんだ。こりゃ、まいったな。まさか野宿しちまうなんて!」

男は全身の力が抜け、返事をする気力もなくなってしまったようで、ただ頷くだけだった。

オーナーは真っ先に温かいシャワーと、自家用サウナを使わせてくれた。暖炉の炎がめらめらと燃えている広いリビングで、男は温かいコーヒーと朝食をたらふく食べさせてもらった。全身の力がすっかり蘇った。

男は、もう一晩だけここで泊めて欲しいとオーナーに懇願した。「ただし、今日は屋内で頼むよ」と、笑いながら念を押した。

「もちろんだとも!」

オーナーは笑いながら答えた。

男は旅の回想からふと我に返った。目の前の景色は何も変わっていない。

ようやく重たい腰を上げた。車やバイク、歩行者がたくさん行き交うオペラ通りをゆっくりと歩きはじめた。

しばらく歩いていると、「Restaurant -愛-」という名前の日本食レストランが目に入った。それを見て、男はすぐ無遠慮なことを考えた。

(ここで働ければ、美味い日本食がたらふく食えるかもしれない)

男の表情が少し緩んだ。自然と男の足が店の入り口に向かう。

そして、静かにドアを開けた。

*** (#7につづく) ***

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。毎週土曜日に小説は投稿しています。

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