平和道とは死ぬ事と見付けたり(中)

この記事は下リンク記事の続きになります。

武士道、武道に続いて、「日本人と芸道」について語りたい。


芸道の目指す究極形とは?

(上)では、武道を極めると「戦わずして勝つ」に至る事を解説した。

それでは、芸道の場合にそれを極めた場合、(無自覚的な日本人の価値観で)どんな状況になると想定されているのか?を考える。

「芸道」において、個人の技術を高めて行く過程、つまり修行自体は必ずしも他者を必要としないが、その芸がなにがしかの「表現」であるならばそれを受け止める他者を必要とする。
そして、その芸によって五感を共有する事共感を呼ぶ事が「芸道」の究極形となる。

究極の「書道」とは?

書道について考える。
「文字を書く」の必要最低限の要素とは「情報を残す」事にある。
読めない文字を書かれたところで他者には「何かが書かれた」事は伝わっても「それで何を伝えたいのか」は分からない。
「文字を書く」とは受け手である読者にとって「読める」事が絶対的に必要だ。
逆に、「文字を書く」事に対し、「読める」事以上の何かを求めるのは、文字情報以上の価値観、美意識によって文字を評価する事を意味する。
その内の一つの要素が「書かれた文字自体の美しさ」だ。
文字を構成する線の位置、配置、トメや払いなどの筆遣い、線の太さ細さなどから、文字全体のバランスを総合的に判断し、文字の美しさを感じ取る。

中国での書の文化は、春秋戦国時代(漫画「キングダム」で描かれてる頃)に金石文(金属、石に刻み込まれた文字)の中に、通常の形状から変化させた特徴を持つモノがあり、単なる視覚的伝達手段を越え、形に意味を見出した所から始まる。
戦国時代が終わり、初めての中原の統一帝国となった秦の時代に墨を使った隷書体が生まれ、毛筆の発達が進んだ。
更に、漢の時代に書法が確立し、文字を書く姿勢や筆の使い方、字のバランスの取り方など、現代の書道でも意識する多くの要素がここで生まれた。
書の美しさを認知させる切っ掛けとなった書聖・王義之(おう ぎし)もまさに漢代の人物だ。
以降、時代を下るにつれ多くの書家が生まれ、人々が字の美しさを学ぶ時、先人の残した書蹟(しょせき。文字の跡、筆跡の事。書跡とも書く)を真似る所から始めるのだ。
この学び方は日本の書道でも踏襲されている。
多くの人が学びたい名人達の書蹟だが、学びたい人の数だけ真筆(本人が書いた書の事)がある訳でもない。ここで、その需要に応える為、真筆を写した写本が作られる事になる。
名人とされる書家と同じ文字を書けるならば、その人も同じくらい書の達人と言う事になり、当然そんな人は多くはない。なので、真筆(や写本)に紙を重ねて文字に沿って縁取りをし、後で中を黒く塗る形式の写本が数多く作られたようだ。

中国の書の名人としては、書法の確立した最初期の人物である王義之が最も著名であろう。その後代でも時代別に何人かの能筆家を纏めて「三筆」、「三大家」、「四大家」などと評する。
このように古い時代の傑出した名人達の書蹟を真似、高い技術を習得するのが中国の「書学」と言えよう。

日本の書道に当たる中国の書学では、書に関する考証的な研究を指し、書をどのように捉えるか、その精神世界が紐解かれている。
曰く、「書は人の心を表す」や「書はその人そのものだ」と言った表現で語られる。
また、単に技術が優れていれば良い訳では無く、心がそのまま表れている事が大事だとして、「天然と工夫」との対比で「天然」が「工夫」より優ると考える。
このような部分で、中国の書学と日本の書道の精神性には通底するモノが大きいと感じる。

このような書の世界に対し、「道」的な価値観を当て嵌めるとどうなるのか?
ここでは「実際の日本の書家がどのように考えているか?」ではなく、「『書道』を創作物で描くとするなら『最高の書道作品』がどのような表現で描かれる事になるか?」を考えたい。

書を見ただけで、書に込めた思いが伝わる。
中国的な「書にその人の心が表れる」を越えて、書を通じて直接心に語り掛けられたように感じられる。
古典漢詩の臨書(りんしょ。手本に倣って書く書の事)であっても、ただ真似ているだけではない”何か”が見た人に感じられ、その人の情動を揺さぶる。
創作の書に至っては、作者の視点を共有し、同じ景色を見つめ、心の動きを追体験する。
書を通じて、世界観が共有されるのだ……

と叙述されると、「それっぽいな」と感じる日本人は少なくないのではないだろうか?
芸における「道」で表現される感覚は、正に「世界観の共有」だからだ。
芸を見せた側の思いが100%伝わる事が、芸における「道」の究極形と言える。

実は書において、その作者の気持ちが前に出ているような作品は余り評価されないらしい。
「作意」が感じられる作品より「率意(そつい。人に見せる意図を持たず、心のままに書く事。卒意とも書く)」に従って書かれたモノの方が好まれるようだ。
「秘すれば花なり」の世阿弥著・風姿花伝にあるように、全てが伝わる事は必ずしも良い事ではないし、隠しておきたい気持ち、またそれをを察してあげようとする気持ちから始まるドラマ性に心を動かされるのは日本人として理解出来るだろう。
無常観、詫び寂び的な感覚もまた、日本的な価値観を反映している。
こう言った、「作意を良しとしない感覚」を語られた後だと先述した『最高の書道作品』的な表現が、少し子供っぽく、押し付けがましさを意識させられるようになってしまったのではないだろうか?

ただ、私がここで言いたいのは、「道の究極形」と言われた時にどんなモノをイメージするか、そのイメージが指し示す日本人的「道」の価値観についてであって、現実の書道における価値観との比較でそれの良し悪しを語る事ではないのだ。
書道に余り詳しくない日本人が、「言われて何となく納得してしまう」のならば、その内容に「道」の価値観が含まれているので間違いないからだ。

「道」とはすなわち世界観

芸術関連の評価表現として、「世界観」と言う言葉がある。
音楽論評では、その作曲家・作詞家の生み出す作品群を具体的に噛み砕いて表現出来ていなくとも、「『世界観が伝わって来る』とさえ言っとけば形になる」みたいな使われ方が散見され、それへのアンチテーゼで芸名でわざわざ「世界観」を名乗るミュージシャンがいる程、よく使われる語だろう。

この流れで語ると「世界観」が陳腐な表現の代表みたいに受け取られかねないが、「自己表現としての芸」を極めた先にあるのは「込められた思い全てが伝わる事」となり、それは正に「表現者の世界観が受け手と共有される事」を意味する。

音楽で言うなら、雅楽、民謡や詩吟などは音としての美しさ以外に荘厳さに身が引き締まったり、音の広がる空間の空気感の変化に気付かされたる。特殊な発声から歌に込められた思いに触れ、歌われる情景に引き込まれる。気持ちを高ぶらせたり、逆に落ち着かせるような心の動きを伴うのは、雅楽、民謡を聞いた事がある人なら分かるのではないか?
聞いていて心を動かされると言う事は、演者に向けた共感を始める第一歩で、まさに「芸道」の「道」たる所以(ゆえん)だ。
能は音楽と演舞を通じて、狂言は更に台詞を通じてシナリオに描かれた世界を観衆に提供する。引き込まれた観客は、そこでドラマを共有する。
歌道や華道でも受け手の心へ働き掛ける事は自明だろう。

仏教伝来とほぼ時を同じくして始まった「香道」と言うものがある。
その内容とは端的に言うと「香木を焚き、その香りを楽しむ事」だ。
これだけだと「道」的な雰囲気を感じないだろう。
だが、この香道は香木の高級さ故に、常に超上流階級の嗜(たしな)みであり続け、礼儀作法、立ち居振る舞いにも厳しく、更に香を嗜む上で文学や書への造詣の深さ、自分自身の書の技量までが求められるなど、敷居の高さも一級品だ。
更に武家社会で広まる中で、禅の精神世界を取り込んだ事で、ただ香りを楽しむ趣味の世界を大きく越え、香道の持つ世界観が確立されている。
このような説明を聞いた後では、「香道」が如何にも「道」然としている事に納得するのではないだろうか?

このように、「芸道」の多くは受け手に対し、世界観を提供するものであり、日本人が自然と受け入れている「道」的価値観を敷衍して、「究極の芸道」を想像すれば、「その芸一つで、見る者がその世界観を完全に共有する業(わざ)」となるだろう。

逆に、受け手が存在しないタイプの芸、技術に対して「道」との表現を使われると何とも言えない違和感を生じさせてしまう。

「利き酒」と言う技術がある。
日本酒の銘柄をズバリ言い当てるには、鋭敏な味覚とその特徴を全て記憶する膨大な記憶力が問われる。
一朝一夕で出来るような技術でないのは明らかで、まさに修行と言って差し支えない程の努力を要する技術だろう。
だが、これを極めて行く事を「利き酒道」と表現されると、何か違うと感じないだろうか?
個人的価値観の表現として、造語的に自身の「利き酒」への向かい方を語る、或いは「貴方にとっての『利き酒』とは?」と問われた際に「利き酒とは道である」と回答する事には、そこまで違和感を抱く事は無いだろう。
「まるで『道』のように向かい合い、日々努力を重ね、精進しています」と自分自身に向かうベクトルとして、「道」の価値観で語られるならば、「なるほど」と納得するより無い。
これが、「『利き酒』とは、それを聞いた誰もが『道』的世界観を認める性質の技術であり芸事だ」とのニュアンスを含んだ表現になると、「『道』って感じ、するかな?」の疑念が湧く。
「利き酒」がその技量を見る者から「凄い」「素晴らしい」と驚嘆され、賞賛を受ける事は否定しないが、心に直接働きかけ、共感を沸き上がらせる性質を持たない事、「利き酒」を行う者から外側へと世界観を共有するベクトルが向いていない事が、この違和感の正体なのだ。
※「利き酒」を例に挙げたが、私がそれを評価していないかのように受け取らないよう、留意して欲しい。あくまで、「道とは何か?」の精神性を語る文脈で例示しただけであり、また実際に「利き酒」を行っている人が「利き酒は芸道だ」と主張している訳でもない(少なくとも私は知らない)。お酒が飲める人ならば、日本人の嗜みの一つと思って日本酒の飲み比べをやってみるのも、一種の文化的活動と言えるのではないかと思う。

前の記事で書いたように、「武道」は単なる「武」の力量とは違う。
「人格形成」、「人としての成長」と「武の技術向上」を合わせる事で「武道」となるのだ。
「利き酒」と聞いてイメージするのは「酒の違いを知る一芸」であって、「人格形成」のニュアンスは重ならない。ただただ「技術を高める事」を「その道を極める」と表現するのは普通に許容範囲であろうが、「利き酒道」と聞くと「それって『道』と言えるの?」と自然に疑問が湧きあがってしまう。それが違和感の正体だ。

「茶道」は日本人なら誰もが紛れもなく「道」だと認めるだろう。
実は、お茶に関しては「闘茶」と言う芸もある。
これは中世に流行った遊びで、茶師と呼ばれる人達が茶の立て方で勝負したり、茶の飲んでその産地を当てる競技だ。
茶の立て方の勝負も含んでいた事からその技術の修練も当然ある訳で、ここは普通の茶道と変わらない。
しかし、闘茶は茶師の生計に大きく影響するようになり、それを見物する人もその勝ち負けを予想し賭けに興じるようになる。
娯楽性に大きく偏った芸となって行ったのだ。
千利休らによって詫び茶が成立すると、茶道から闘茶は切り離されて行くようになる。
(後に、茶道の家元である千家が闘茶の一種である茶カフキ(歌舞伎役者の間で流行った闘茶)を取り入れてはいるらしい。これは単純に茶の味を見極める技量の修練としてだろう)

闘茶にも高い技術が必要なのは分かるし、お茶に興味を持つ人の間で娯楽的に楽しまれる事も理解出来るだろう。
しかし、やはり修練した後にその高い技術を見せられたとして、それを見物した人に同じ味覚を体感させられる訳じゃない。
娯楽的な性格に加え、人格形成と懸け離れた刹那的な生き様を生んでしまう事、更に見物人と世界観の共有が無い事が決定的で、歴史的な「闘茶」について「道」と言う表現を使われると、かなり多くの日本人が違和感を覚えるだろう。

「道」として納得するモノ、「道」とされると納得できないモノの対比によって、「道」との表現で日本人が何を感じているのか、「道の指し示す世界観」が見えて来たのではないだろうか?

余談:「韓国茶道」の動画について

インターネットを長い事やってる人だと、これまでネット内を沸かせたおもしろ動画の中で、「韓国茶道」の動画を視聴した人も少なくないかも知れない。今でもyoutubeやニコニコ動画で視聴可能だ。

ざっくり言うと、韓国には日本式の茶道をパクって魔改造した「韓国式茶道」が存在するのだ。

こういう話をすると「あぁ、この人も嫌韓をこじらせた人か」と思われそうなので先に弁明しておくが、私は「感情的」な韓国批判には賛同しない。
事の経緯を辿れば、「感情的」になる日本人の気持ちも当然理解するのだが、「感情」を優先させた言説には興味が無いし、そこに生産的なモノを全く感じないのだ。
批判すべきを批判し、評価すべきを評価する、それは何処の国に対しても公平でありたいと私は思っている。

で、肝心の「韓国式茶道」なのだが、これがまぁヒドい。
日本において、技術を伴う「道」は「道」が完成する道のりで所作の無駄が省かれていく。
結果、最初から最後まで、必要最低限の動きで目的を達するよう、動きが洗練されたものへとなって行く。
「韓国式茶道」にはこれが無いのだ。
「何故、今、これをしたのか?」が理解出来ない動きが続く。
作業を行う台が用意されてるが、そこに載っている容器や茶碗の位置関係が「これで本当に良いのか?」と不安を覚える状態だ。
茶を淹れる(抹茶を立てる訳では無いので)工程があるのだから、手前に茶碗を置けば良いものを、わざわざ急須を手前にして淹れづらそうに茶を注ぐ。
誇張抜きに、洗練された動きと言うものが一つも存在しない。
「もうちょっと洗練出来そうなのにな……」ではなく、「洗練すると言う発想が端っから無かったろ、これ……」と言う有様なのだ。
しかも、お湯を魔法瓶から注いだり、汚れた場合にふき取る為のトイレットペーパーを傍に裸のまま置いていたり、「どうしてこうなった?」のオンパレードだ。
そして最後に自分で淹れたお茶を飲む。

「いや、誰かに飲んでもらう為の『茶道』じゃなかったんかい!」とツッコミせざるを得ない。
自分で飲むだけなら格式ばった手順を踏む必要も無い。
誰が何の目的でこのような「茶道」を始めたのか理解に苦しむ。

まぁ、韓国に関しては、この手の日本文化のパクリが当たり前のように蔓延っている。
厄介なのが、その全てについて「起源は朝鮮半島が先」と必ず言い出す事だ。
「日本文化は中国文化の亜流だ」との誤認が当たり前のように有って、それが伝わる過程で必ず朝鮮半島を通過したはずだから、「あらゆる日本文化は朝鮮半島にルーツがあると言って差し支えない」とかなり多くの韓国人が信じ切っている。
そうして、そう言った自分達に都合の良い歴史を自己実現する為に、日本文化を盗用しておいて「韓国式」を名乗り、此方が先だと世界に向けてアピールするのだ。

空手や柔道、相撲、剣道と多くの武道・武術でもこの手の主張を行っている。
茶道だけでなく、折り紙や板海苔など文化面でも主張を繰り返す。
実は板海苔は和紙を漉(す)く技術を海藻である海苔に転用して生み出されたもので、和紙を作る工程抜きに板海苔は存在し得ない。
ここの整合性はどうなっているのか?と言うと、韓国は当然の如く「和紙のルーツも韓国紙だ」と言い出している。
全く以て手に負えない。

歴史的に和紙のように柔らかく折る事が容易な紙を朝鮮半島で作っていた記録など無い。厚手の紙を使用していた事が明らかだし、自分達の文化を大事にすれば良い事なのに、わざわざ自分達の歴史を改竄してまで日本文化のルーツを名乗ろうとするのだ。
板海苔があって初めて作れる海苔巻きも当然日本文化だし、ひと昔前は韓国でも「ノリマキ」と発音していたのだが、「海苔巻きも朝鮮半島発祥」との主張を始め、日本語文化を減らす運動によって「キムパプ」「キンパ」と言うようになった。こういう経緯を知ると、日本のスーパーやデパ地下でわざわざ「韓国風海苔巻き」を有難がって売ってるのは能天気も良い所だと感じる。
また、柔らかく折りやすい和紙によって折り紙文化が生まれた事から、折り紙も当然日本文化なのだが、此方もせっせと第三国で韓国風折り紙こそ起源だとしてアピールしてる。
日本文化の剽窃に躊躇いが全く無いのだ。

基本的に「○○する行為・文化的事物は朝鮮半島に起源があった」と言うものの、それに続いて出て来て当然の歴史資料はまるで存在しない。
その理屈付けとして、「日本に併合されている間、日本は朝鮮半島が優位となるような歴史資料は徹底的に探し出し、焚書したのだ」と主張する。
そして、その主張を聞いた韓国人は怒りに震えながら「日本人はそこまで悪辣なのか」と憤る。
大学教授や歴史研究家など、社会的地位に見合った誠実な研究成果を期待されるような人達が、こぞって日本を貶め朝鮮半島が優位であったとの解釈を無理強いする。
中国に残る歴史資料などから朝鮮半島の文化もおおよそ辿れるのだが、そこは気にしない。
韓国由来だとする日本の伝統文化が、朝鮮半島でどのように定着し、今の韓国人の精神性、世界観に影響を与えたのか?についても整合性取れた説明は出来ないが、そこも気にしない。
ただただ、「日本文化は全て朝鮮半島由来だ」と真顔で語るんだから恐れ入る。

ちなみに、韓国にだって近隣国の歴史資料を正しく解釈し、それを主張する研究者だって存在する。だが、このような人に対し多くの韓国人は「親日派(韓国語の読みでチンイルパ)」認定を行い、「お前は親日派だから、そんな事を言うのだろう」「その主張をする事で、お前はどれだけ得をするのか?」と言う形式でなじり、社会的地位を失わせようと炎上騒動が起こる事になる。
民族全体の敵であるかのように叩かれまくる為、この批判に晒されると多くの研究者が自説を曲げて、自分が間違っていたと認め、国民の許しを請うべく謝罪するのだ。
これが現代国家、先進国の一つなのだから、呆れてモノが言えない。

全く理解出来ない。
こういう思考に寄り添う事など出来る訳が無い。

ただ、繰り返しになるが、こう言った情報からかの国に対して嫌悪感を抱く人に関して「無理も無い」とは思いつつも、それで情緒的、感情的な言葉で罵る行為に与する事を私はしない。
あくまで事実関係を詰めて批判するに留めたい。
「理解出来ない相手だから」と言う理由で誰かを罵倒する行為を正当化しようとすれば、結局はイデオロギーの異なる相手に対しても罵詈雑言を言って構わないと言う事になってしまう。

イデオロギーの違いに対しては
「私は貴方の意見には反対だが、貴方がそれを主張する権利は守る」
との立場で、言論の自由を尊重する立場を取りたい。
それが結局は自分の言論の自由を確保する事にも繋がるからだ。

(但し、私のように左派的言論に批判的な人間に対し、左派界隈は上記のような立場を取ってはくれない。徹頭徹尾、罵声を浴びせて来るだろう事は覚悟してる。理性を保った方が損をすると言うのなら、それは一旦甘受して、社会の在り方を変えるよう努力するより他ない。事程左様に民主主義とは面倒くさいものだが、民主主義より優れた政治体制はまだ見つかってないのだから。)

論理的正当性を主張すべきは主張する。相手の誤った言説の拡散にはカウンターの言論を行う。そこまでが日本人として出来るラインだ。これを踏み越えると「国籍差別の感情は未だに根深い」と相手方に使われ、事実の拡散においても後れを取ってしまう。精神衛生と実利の両面でプラスになるのだから、選択肢は一つしかないのだ。

「武道」、「芸道」から見えて来る「道」の世界観

これまで、「道」とは「技術の飽くなき修練」と「人格形成」のハイブリッドである事、また、日本人が違和感無く受け入れる「道」の条件を語って来た。
「武道」や「芸道」的価値観の究極形が、「他者への影響力の最大化」だと言う事を説いて来た。

次は、ようやく表題にある「平和道」について考える。
「平和道」と対になる「平和術」は存在するのか?
そもそも何故、私が日本の「平和主義」に「平和道」的趣(おもむき)を感じたのかから始めて、論じて行きたい。

<下へ続く>

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