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勘違いしないで
2024/11/7
家族会での体験談発表が無事に終了した。事前に作成した7500文字の原稿を読み、その後の意見交換も良い雰囲気でおこなえた。墨染自身、だれかを傷つけないやり方で「伝える」を実行できるようになったのはおおきな成長だと思う。
いっぽうでこのようなフィードバックをいただいた。「こんなふうに言葉にできるくらい、ものすごく回復して自立されているんですね」わたしがいちばん苦手な言葉だ。こういう場面でいつもいつも言われることだ。どこを改良しても、なかなかこの評価を崩せない。もっと語りがうまくなったらそんなことを悔やまなくてもよくなるだろうか。勘違いしないでほしい。語れるということは、リカバリーの指標を推しはかるものじゃない。
語る言葉をもとより持ち合わせているひとはいる。わたしはこどもの頃からたくさんの本を読んだし、かくこともすきだった。ポエムも短歌も小説も脚本もなんでもかいた。専門的な勉強はしていないけれど積み重ねた経験があるから、起承転結、まとまりのある構成を考えて文章がかけるだけ。
演劇をやってきたから、ときに淡白に、ときに感情をこめて物語のように読むスキルがあるだけ。そして福祉をたくさん受け、福祉を提供してきた経験があるから、物語と距離をおいて感情的にならないように取り扱うことができるだけ。
語りの経験もそれなりに積んできたから尚更だ。いちいち感情的になってはいられない。語りは本筋じゃない。そこを経てどんな学びを聴き手が得るかのほうがよっぽど大事。意見交換の時間でなにを得てもらうかが大切な肝だと思う。
穏やかに過去のことを語れるからなんだというんだ。それをリカバリーと呼ぶ場合ももちろんあるだろうけど、わたしはそうじゃない。もとから持っていたものを使っただけで自立したなんて勘違いされたくない。それは自立とイコールじゃない。回復の度合いを示すものでもない。過度に持ちあげられるのも過大評価されるのもほんとはうんざりだ。
でも語りはわたしにとって仕事だ。きちんと報酬も発生する。どちらかといえばこの評価こそ、仕事でおこなう語りに相応で必要な反応であって、わたしのこころがどうかということはそんなに関係のないことだ。わかってはいるんだけどね。
「あなたはじぶんの言葉で語れるから大丈夫」っていろんなひとに言われてきた。どこが?なにが?どう大丈夫なの?なぜそう判断したの?じぶんの言葉で語れるかどうかと、生活上の困りごとは一致しない。強い希死念慮をnoteでしたためられたら「大丈夫」になるのか?違うだろう。どうしてわたしはそういう評価ばかりもらうのだろう。
症状にこまっているから助けてっていったはずなのに「じぶんで説明できているから入院しなくて大丈夫」って言われた。意味わかんない。説明できたところで加害者の声がきえるわけじゃないし自宅への安全感が強まるわけでもないのに。なにを勘違いしているんだ。なにを勘違いさせているんだ。
墨染だって語れなかった時期はあったじゃないかといわれれば、それはそうかもしれない。たしかに今よりもじぶんのことがわからず、他責的で、社交的な場面にいろいろと不向きな時期もあった。
はじめての語りを思い返してみれば、原稿をかきながら何度も発作をおこし、目のまえの看護師たちに怯え、声を震わせ、涙をこらえながらおこなった。そのときよりはよっぽど強くなったと思う。でもそれは、ひとえに強さであって、回復ではない。そこはイコールにされると違和感がある。
とはいえ他人より語るということに関してスキルがあったのも地頭がよかったのもぬぐいようのない事実だとおもう。もとからあったものを使っただけではじめて会ったひとたちから「自立したんですね」と称賛されるなんて、馬鹿げてる。
もっと大事なことを伝えたかった。それが伝わらなかったのはわたしの原稿にそれが含まれていないからに他ならない。力不足だ。どうにも一見して大丈夫なふりをするのがうますぎる。外にみえるわかりやすさが圧倒的に足りてない。それが生きづらさだということに気づいてくれるひとはいない。
毎日しにたいとおもっていることもわからないくらい、笑って社会的にやりすごすじぶんが嫌い。それが生きづらさなら木を森に隠すがごとく、いっそ社会的になれればよかったがその能力もない。
たぶんわたしが得意としているのは、ピアサポーターの制度上、使いやすい語りだ。ほどよく刺激的で、ほどよく未来への展望があり、ほどよく福祉とかかわって改善した歴史をもつ。ピアサポーターや福祉職の端くれとして機能できるだけの最低限の知識がある。緊張であがりすぎず、及第点以上の発表ができ、相手を尊重したうえで意見交換に臨める姿勢と言葉づかいのスキルをもっている。場に応じて原稿を書き換える調整が可能だから語りの対象にも幅がある。便利な語り手だとおもう。
でも大事なところは届けられない。まだわたしにはスキルが足りない。もしくは、無駄な部分が足り過ぎてしまったのかもしれないとも思う。むかしの原稿はもっと生々しかった。いつしか傷をおおっぴらにみせることをやめてしまった。
仕事柄そうなったのかもしれないし、回復者として見られたかった一時期がそうさせたのかもしれない。そう自覚しているからここ近年はそれなりに生々しいものを書いているつもりだが、文章がその印象を和らげている節がある。わたしが落ち着いて話しすぎるのも影響しているかもしれない。
腫れ物と思わせない程度に生々しく語る、そのあいまいなバランスをとりながら語れるようになりたい。「すごいですね」という言葉に反射的に「ありがとうございます」と受け取るようにしているが、それも状況によって良し悪し。
まあ、リカバリーストーリーを語るうえでは、どうしてもほんとうの傷なんて伝わらないんだろうけど、望めるならばもっとちゃんとしたい。価値をつけたい。意味を増やしたい。足りないなら進めばいいし、進みすぎたなら戻ればいい。
自立なんかしてないよ。制度がなければ経済的にも治療的にも途絶えてしんでしまう。働くこともままならず、当事者活動の一端でそれっぽい顔をしているだけだ。ほんとうはもっと苦しい。
むかしボスに「障害者になりきれないのは苦しいだろうね」といわれたことがある。これまで幾多のサービスや支援を受けてきて、多くの温かい言葉をもらってきたけど、その言葉ほどわたしを肯定してくれたものはあとにもさきにもなかった。
なんのために語るのか、誰のための時間なのか、次回の仕事をうけるときはもう一度じっくり考えて煮詰めなおすのもいいかもしれない。わたしにとってこれは自立じゃないんだということを、もっと素直に伝えられるようになれたらいい。もうこんな悲しい勘違いをされなくてもすむように。聴き手にとって歪んだ希望にならないように。
わたしはじぶんの過去から離れすぎたのかもしれない。語り部として慣れすぎるのもきっとよくない。
最近のわたしがほんのりと思っている、支援や医療から距離をおきたいという感覚を言語化して大切にできたらいいなとおもう。わがままだよな。なければないで困窮するし、満ちればそれから逃げたいとおもう。ほどよい度合いがまだみつからない。
語りには、責任が存在すべきだ。
もらった報酬以上の責任をもちたい。