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あたらしい出会いを求めて

2024/11/14

福祉職やピアサポート活動の性質上、精神疾患の当事者や医療・福祉・心理職と知りあうことが多い。会議や勉強会などの場所でおはなしする機会がたくさんある。それ自体はわたしにとってはすごく貴重なものだし、とても充実している。

けれど、ときどき思う。わたしの世界はあまりにも福祉色をしている。スケジュール帳をみれば心理の勉強会・当事者会・遺族会・ピアサポート活動・地域従事者の交流会・ボランティアと埋まっており、それ以外の日はわたしが患者として精神医療福祉の恩恵にあずかっている。メンタルヘルスと関わらない日のほうがよっぽどすくない。

この世界にいることはすき。深くまで沈んでいって、この世界の根本的な構造についてはなしあうのもすき。だけど、これではあまりに世間が狭いのではないだろうか?ここ数ヶ月ふりかえってみると、まさに界隈内の出会いが大半を占めている。

あたらしい出会いがほしいと思いたち、マッチングアプリをはじめることにした。数多あるアプリのなかでも、お金がかからず、誠実で平和そうなものを選んだ。ワンナイトなどの遊び向けではなく、真剣に相手を探すためのアプリだ。

恋愛に発展するかどうかは正直どちらでもいい。友達になれれば十分だとおもっている。ただ、興味関心をもてる相手がいいとおもいながらスワイプを繰り返して数日。とある男性とマッチングした。

彼は去年の夏に日本にきたばかりのアメリカ人で名前をケビン(仮)という。学校で英語教師をしているそうだ。もともと英語圏の文化に興味のあったわたしは、彼にとても惹かれた。メッセージをいれてみると誠実な対応で、話もそこそこ盛り上がった。すこし不慣れな日本語に愛らしさすら感じた。

彼と話していてたくさんの気になることが生まれてきた。日本に来るまでにどういう勉強や手続きを踏むの?なぜ日本のなかでもこの地域にしたの?日本に興味をもったのはどうして?学校の先生になることはいつからきめていたの?教員免許をとったの?外国でとっても日本で通用する仕組みなの?

とてもメッセージで話しきれることではなく、土曜日にお出かけしようという話になった。マッチングアプリの性質になぞらえていうなら、デートだ。

わたしはこの出会いをかなり喜んでいる。というのも、相手の人生にこころから興味をもつということがまだわたしにもできるのだと再確認したからだ。実のところ、相手の半生を訊くことは仕事柄、慣れている。それなりに重い話だって問題ない。

初対面の相手と関係をつくりながら、相手に支援を提供していくために必要な情報をとらせていただく仕事をずっとしてきた。それはあくまで支援のためであって、墨染個人の趣味主観とか興味がわくかどうかはあまり関係ない。必要なことだから訊くだけだ。もちろん関係性ができてから、交流の時間に訊かせていただくこともあったが、それも結局は支援のために使われる。すべては情報だ。

ケビンから彼の人生やとりくんでいる物事について訊くのは、なんのためでもない。支援につながることももちろんない。なのにこれだけ鮮烈な興味をもてるということは、わたしにとって喜ばしい発見だった。純粋な「あなたのことがもっとしりたい」という感情で満ちている。

デートは、晴れていたらガーデンをあるき、おおきな本屋を紹介し、カラオケにいって、最後に異国籍カレー屋で飲み交わす予定だ。非常によい雰囲気だから、ドタキャンにならないといいな。カラオケにいくんだから、もし可能ならアラジンの「A Whole New World」を一緒にうたってみたい。

しかし、医療福祉とはちがう世界のひとと話したいという思いはありつつも、もし関係をつくっていくとなれば、どこかで自己開示はしなければいけない。障害者であることやメンタルヘルスの治療が欠かせないことなど。そのときに、嫌悪感やスティグマを示さないひとであってほしい。欲を言えば理解しようとしてくれるひとであると嬉しい。

そのため、はじめのメッセージでメンタルヘルスの仕事や活動をしていること、またじぶんもそのように苦労した経験があるからそれを活かしていると伝えた。すると彼は「母国では大学のカウンセラーにお世話になった。苦労したのにそれを活かしているのは素敵なことだ」と拙い日本語でかえってきた。

また、その話から発展して「アメリカでは昔はスティグマが多かった。いまではすこしずつそうではなくなってきている」と向こうから話にのってきてくれたため、わたしはいくばくかの安心感を得た。

彼ならばある程度の自己開示をしても大丈夫かもしれない。けれど支援職につたえるようなかんじではなく、あくまですこしずつ、じぶんをしってもらうために重くなりすぎないことを心がけねばならない。せっかく知り合えたのにここで失ってしまうのはあまりにもったいない相手だ。

男女関係に友達は存在するか?という問いに対しては「YES」と答える。これまで多くの当事者や支援員との交流をしてきて、友達関係になったひとはたくさんいる。彼とも「友達」になるのか、もっと発展した関係を築くことができるのかはわからない。まずはあってみて、お互いの距離感を大切にしたい。なにしろデートは元夫と別れてから数年ぶりのことだ。そうか、ついに新しい異性と出会う気になったのか、と我ながら感慨深いものを感じる。

むかしみたいに男性に従わなければいけないという固定観念はないし、モラハラに害された経験から、自由を侵害しようとする行為に敏感になり、自己主張ができるようになっていった。いまの「わたし」をもった状態でひとと出会うのは、きわめて健全な気がする。願わくばたのしい1日になるといいな。

今週はひさしぶりに生活訓練にいって芸術療法でスクィグルをおこなった。いちばんしんどい10月を乗り越えたのだから、これからもうすこしがんばって通所したい。限られた2年間、もったいない使い方をするわけにはいかない。

それから年明け落ち着いたら仕事を探そうということになり、いくらかこころが軽くなった。ボスの言った「どうせ体調崩すなら好きな仕事して崩したほうがマシじゃない?」が存外響いたということもあるし、なにより終わりのない休養は墨染自身を癒すどころか蝕みかねないことだった。ひとくぎりがあるとおもえただけでもすごくよい面談だった。

明日のカウンセリングではこれをどうにか伝えよう。休むことを推奨するセラピストはあまりいい思いをしないかもしれないが、今のままでは苦しみつづけるということはこの数ヶ月のわたしの様子をみてきっとわかってくれているはずだ。

スクィグル法「ポンデライオン」
アートセラピー「はらぺこあおむし」

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