大林宣彦という人のこと

大林宣彦監督の作品「HOUSE」の評論を目にして考えさせられた。
私は大林宣彦監督のこっち系、尾道三部作ではない方向の作品って「金田一耕助の冒険」と、「ねらわれた学園」しか見たことなくて、「HOUSE」からは実は逃げている。
逃げているけど長年生きていればあらすじとか個々のシーンの写真は目にするから知っている。他の見方視点から「見ないのに批判する」くらいになるくらいは目にしている。
大林監督の作品って、いわゆる「映画制作のセオリー」を無視しているわけですよ、私が耳にした「セオリー」は、登場人物が号泣するときは雨が降るとか、あとなんだっけな、忘れた。松たか子主演「告白」も「セオリー」無視で批判されたのを聞いたことがある。

昔の映画監督って、監督になるために先輩監督の下でもろもろ修行して、映画の作り方を学ぶ。しかしテレビドラマの監督出身とか、ビデオカメラで独力で勉強した人から、近年ではスマホで映画作りを始めた人とか修行しないで監督デビューする人が増えて、1980年代だったと思うけど、テレビドラマの映画化には決まり文句の批判「なんだこれ、映画でやる意味ないじゃん、テレビの二時間特番でじゅうぶんじゃん!」てのがあって、私が「映画とドラマの違いってなんですか?」と聞いたら親切な人が「奥行き構図が全然違うんだよ」と教えてくれた。
で最近、某モデルさんの写真ですんごい威厳ありまくりの写真をみて、なるほど昔の悪役は、宣材写真で配下の者をずらっと並べて「この世界は俺の物」って迫力を出していたけど今のそういう写真はただの記念撮影だなと。(そのモデルさん、一人でそれだけの迫力が出ている)
だから「映画作りのセオリー」って、象徴的なものとして、近年の作品からは「シネマスコープ」、構図で「すげぇ!」と圧倒された記憶がない。「この凄さは映画でなければ見られないだろう!」という衝撃の欠如。
とはいえ「今はドローン撮影ができるぞ!」て人がいて(なるほど!)とは思ったんだけど、それだけ「映画制作のセオリー無視」は映画を手軽な文化にはしたけど、「映画でなければ駄目」ってのはかなり剥落したんじゃないかという点から、その先駆作品「HOUSE」を批判の槍玉に。

それが映画「HOUSE」を見てもいないのに批判する私の意見。

ところがその「HOUSE」評論は別の角度から評価していて、作中世界のキッチュ(悪趣味)とか作り物感満載の背景画とか、リアリズムではない見世物小屋の世界観なんだけど、それこそがもう映画でなければ出せない映像文化で、縁日や盆踊りとか、日本文化の良い意味での暗部深淵ではないか、と。
これまた私はまだ見てないんですけど、「花筐/HANAGATAMI」(2017)、「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」(2020)、これまた凄い作品なんだそうです。「花筐」の登場人物の一人は「HOUSE」の同姓同名と同一人物なんだそうで、世界/世界観が繋がっているみたい。
で、大林宣彦氏のもう一つのテーマ「反戦」に繋がりまして、「HOUSE」も「花筐」も「海辺の映画館」も、反戦の思いが組み込まれていると言われている、それも「日本文化の良い意味での暗部深淵」であらわされていると。

くりかえしますが、すいません、私この三つとも見てないで書いています、「花筐」「海辺の映画館」は猛烈に(見たい!)とは思っていますが、見ていません、それで書いているんですが、

現代日本で「戦争反対!」と言ったら「攻められたらどうするんだ!」って言われて、この構図がお約束じゃないですか、でもこの「攻められたらどうするんだ!」という言葉って善し悪しじゃなく「お前が、もしくはお前の大切な人が殺されるってときでも抵抗しないのか!」って意味が込められている、だから「戦争反対!」を言う側は「たとえ自分が、大切な人が殺されたって相手を殺さない!」と言うか沈黙をするしかなくなる、だから「だから攻撃をされないように日常でいろいろやるんだよ!」と問いの意図をかわすしかなくなる。
ところが大林宣彦氏は、「映画制作のセオリーからの自由」だけでなく、その問答の構造からも〝自由〟なんじゃないかと気がついたんですよ、
大林作品は「お前が、もしくはお前の大切な人が殺されるって時に!」への直接の返事にはなりませんが、この問いを発する人、自分の想定している返答以外の答えが返ってきたら、「なに言ってんだ?こいつ」だなんて思わず、それはそれできちんと受け止められますかね?

たとえば、史実で、江戸時代に黒船が来て開国を迫ったとき国論は二分された、誰も正解を知らないですよ、いままでそんな国難が起きたことがないから。
でご公儀の維持、幕府の安泰を求める人は「幕府の安泰」という正解があるんだからそのために右往左往するんですが、その正解を持たない人はどうしたらいいか解らない、だから維新志士の中には「もう狂うしかない」てのがいたと聞きます。

「戦争反対!しかし自分や愛する人が死ぬのも嫌だ、だけど戦争には絶対に反対!」で黙る人逃げる人しかいないのが現代日本だけど、「どうするんだ!」と言われて「狂う」と言い切る人がいたら、まぁ逃げっちゃ逃げだろうけど、「どうするんだ!」の人、どうするんだろ。

で大林宣彦氏は、別に「狂う」と言ったわけではないけど、作品でそれに匹敵するほどの想定外の、求めていない返答をしたんじゃないかと。「どうするんだ!」のスケールや常識には当て嵌まらない「戦争反対」を言っているのか!と。
だから「HOUSE」公開時に、そのあまりに自由な映画の作り方に映画の新しい可能性を見た人たち、今になってその面白さを評価している人たちって、まだまだ大林作品の深さが解ってない人が多いのか、といま私は唸っている。

思い出した、手品師の ふじいあきら 氏がインタビューで、
「手品は見ている人にタネがばれちゃいけない、それは大前提なんですが、手品をやって、見ている人が「ああすごいね不思議だね」程度に思ったら失敗なんです」と言っていた。
手品をやって「すげぇ!」「どうなってんだ?!」と食い入るような反応をされたら成功なんでしょうが、
剣劇映画で、
お城の長い廊下とか、谷に掛けられている長い橋が敵方に埋め尽くされていて、主人公が端から端まで全員を切り倒す、そういうシーンで、何の作品、誰の演出とは言わないけど
「敵の方が斬られにいってんじゃねぇか!」と言われたのがあって、
「昔の映画だってそれで「すげぇ!」と成功した作品がどれだけあるよ!」という意見もあるだろうけど、
テレビドラマでワンカットで端から端まで主役が大勢の敵を斬り倒していくシーンって、ある?たいていは2カット3カット、カメラの視点を変えない?
細長い状況で、ワンカットで、大勢の敵を一人で斬り倒して進んで観客に「すげぇ!」と思わせる、この成功例はとても少ないにしても、テレビドラマの人がやって成功させたことがどれだけあるか。
でも今は剣劇よりも銃撃のほうが多いか…。

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