橋占 1112
橋占 源平盛衰記
治承2年11月12日のこと、清盛の娘の建礼門院徳子は妊娠していた。
お産の気配があったが、絶え間なく陣痛が続き生まれることはなかった。
母の時子(二位尼)はそんな様子に心苦しく思い、橋占を行うことにした。
一条堀川戻橋の東のたもとに牛車を止め待っていると、
十四、五歳ばかりの禿の童子が十二人、西から手を叩きながら出てきて、
「榻は何榻、国王榻、八重の塩路の波の寄榻」と、
四、五返歌いながら、橋を渡り飛ぶように東に去っていきました。
時子は帰って弟の平時忠にこのことを語ると「国王榻」だから
皇子が生まれるに違いない大変めでたいことだと話しました。
生まれた子こそ後の安徳天皇。
下の句「八重の塩路の波の寄榻」
八歳にて長門国壇ノ浦に沈むというのは気づいていなかった。