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ChatGPTは、自転車で言えば補助輪なんじゃない?
こんばんは。バブル女子、青葉です。
40年前、家に初めてワープロがやってきた日。大喜びで文字を打ち込んだものでした。
「わぁ!楽しい!」
文字配列もわかっていなかったので、打つのはすごく遅かったけれど、自分の思ったことがちゃんと言葉になるって、こんなに嬉しいんだ! と感動したのを覚えています。そして、自分で書いたのに、自分じゃないような、新鮮な気持ちになったものでした。
それから数年後、ワープロは「オワコン」となり、時代はパソコンへ。
会社のパソコンは、今で言うミシンくらいの大きさで、しょっちゅうフリーズしてたっけ。
そして、いつの時代も決まっているのが、「手書きの良さがある」「機械じゃ気持ちが入っていない」 と語るおじさんたち。バブルの時代にも、そんなことを言う人がいたけれど、不思議とそういうのは おじさんに多くて、おばさんはちゃっかり「便利ね〜助かるぅ」と未来志向 だった。
今、生成AIに対して 「こんなのはダメだ!」「なっとらん!」 と怒っているのも、おじさんが多い気がする。
バブルの頃に私に「手書きの良さ」を懇々と説いていたあのおじさん、まだ生きているかしら?
きっと今は セルフレジに怒って いるんじゃないかしら。
レジで万札を出して、おばさんに嫌われていそうね。
便利なものは、とりあえず使ってみたらいいと思うのよ。
ChatGPTなんて、所詮ツールにすぎない。
チャットGPTは補助輪みたいなもの
例えて言うなら、自転車につける補助輪みたいなもの。
確かに、補助輪なしでスイスイ走れる人は、それで行けばいい。
でも、乗り方がわからない人だったら、転んでばかりで面白くなくて、挫折しちゃうじゃない?
でもね、補助輪がついていれば、遠くまで行けるし、走ることの楽しさを味わえる。
そして、いつか「もう補助輪はいらない」と思う日が来るかもしれないし、「今日は補助輪をつけて気軽に走ろう」と思う日があってもいい。
だから、もっと「書くこと」や「描くこと」を楽しみましょう、ってこと。
「チャットGPTは補助輪」 という発想は、つまりこういうことよ。
✔ 自分でスイスイ進める人は、補助輪なしで走ればいい
✔ でも、最初はうまくいかない人もいる。そういう人にとって、補助輪があれば転ばずに楽しく進める
✔ 補助輪があれば、遠くまで行けるし、走る楽しさを味わえる
✔ いつか「もう補助輪はいらない」と思う日が来るかもしれないし、「今日は補助輪をつけて気軽に走ろう」と思う日があってもいい
まさに 「選べる自由」 を持つことが大事なのかなって思うのよ。
自由に学びたい、楽しみたい、好きなことをしたい。
そんな人にとって、AIは 「学ぶことや創ることをもっと気軽にしてくれる相棒」 になれるんじゃないかしら。
ChatGPTは、「走ること自体が楽しい!」と思えるように、いつでも補助輪になってくれる。
あなたが必要なときに支えになって、いらなくなったらそっと見守る。そんな存在なのよ。
だから、あんまり深く考えなくてもいいんじゃないかな?違う?