粘り強くなるために
先日、黒豆納豆を食べて「納豆に詳しくなりたい」と思い、勢いに任せて『納豆の本』を購入した。今まで全国納豆協同組合連合会というものがあるのを知らなかったため、この本を手にとってよかったと感じる。本書によれば、先日食べた黒豆納豆も黒くなかった納豆も「丸大豆納豆」という種類の納豆だったようだ。丸大豆納豆といってもいわゆる普通の納豆であるのだが、売っているこの種の納豆のパッケージには、極小粒、中粒、大粒などと大きさが表示されているらしい。これまで納豆のパッケージはよく見るようにしていたが、これまでの記憶を辿るとその表示はいわゆる「スコトーマ」の範疇にあって見えていなかった。笑。販売会社や「(遺伝子組み換えでない)」などの表示は見えていたのだが。。
これまで家庭教師として活動してきて、「粘り強くなるために納豆を食べよう」と担当している生徒たちに伝えていたことがあった。振り返ると、そのように半分冗談で言っていた時代から積極的に粘り強そうな納豆を食べたり、料理していて中(身)がネバネバしていると偶然知ったオクラをそれ以降ほぼ毎回野菜炒めで使うようになっていた気がする。当時は家庭教師の指導をしていて「粘り強くなるためにはどうすればよいか」という問いに対する解がなかなか簡単には出てこなかったのだ。粘り強くなるというのは、「続ける、継続する、諦めない、最後までやる、やり切る、打たれ強くなる」などの語彙と同じコンテクストを含むのかもしれないが、このチャレンジングな問いで登場する言葉はいつも「粘り強くなる」であった。
粘り強くなる。
指導を担当しているご家庭からは“藁納豆”を紹介していただいたこともある。それは指導後にそのご家庭でお食事をいただいているときだった。その時は「藁(わら)の中に入っている納豆があるんだな」ぐらいの印象だったが、いつもお世話になっているご家庭から藁納豆を紹介されたことが納豆に対する興味を加速度的に湧かせてくれたのかもしれない。
粘り強くなる。
これはよく眺めてみると、まさにネバネバした納豆が「混ぜると簡単に糸を引いて簡単には糸を切ってくれない」ことを表している比喩表現であった。比喩はしばしば言葉で巧みに表現されることの多いある種のレトリックである。『私たちはどう学んでいるのか』(鈴木宏昭著)では、
「能力というのはアブダクションから生まれた仮説である。そこに不適切なメタファーが加わることで、誤った能力観が広まっている。それは能力の安定性、内在性という見方である。なぜこれらが誤っているかと言えば、人の認知にはほぼ普遍的に見られる文脈依存性を説明できないからである。よって認知的変化を考えるときに、能力という仮説は不要である。」(同書、「能力という虚構」より)
と言及されている。少し脱線してしまったが、ともかく比喩はさもその力(読解力、論理的思考力、続ける力などと表されるような「●●力」)が実在するかのように都合よく用いられることが多い。
ならばその比喩表現を逆に利用してみてはどうか。すなわち、粘り強くなるために、粘り強くなる。粘り強くなるために、ネバネバしたものをカラダに入れて粘り強い体質を作る。粘り強くなるために、納豆を食べて体にインプットして「粘り強さ」を発酵させる。粘り強くなるために、炒めてもネバネバしているオクラを食べて身体に粘粘(ネバネバ)したくさびを打ち込む。さすれば、粘り強くなるものを食べることが習慣となり、粘り強くならんこと限りなしであろう。
もちろん、今日も納豆を2個食べた。