【短編】わたしが「むちぃ♥」と言えない理由
【0】
「まぢありえんてぃーなんだけどぉ。ねぇー、まゆぽんウチの話きいてるぅ?」
放課後、私はクラスメイトの坂町 綺羅莉(さかまち きらり)と夕焼けの差し込む教室で雑談をしていた。
今年の春、受験した高等学校へ無事合格し、それを機にイメチェン(俗にいう高校デビュー)を果たした私は、それなりに順風満帆な学校生活を謳歌していた。
中学の頃とは違い、お昼ご飯はグループで固まって食べているし、放課後も一緒に遊んだり、今みたいに毒にも薬にもならない時間を過ごせている。
まぁ、授業で「二人組になってくださ~い」って言われると、仲のいい友達は別の友達と組んで余ることがあるし、今も会話を楽しんでいるというよりは、一方的に愚痴を聞いてるだけに思えるが。
「うん。聞いてるよ」
私はできるだけ笑みを崩さず答える。
悲観してはいけない。常に笑顔だ。
その答えに満足したのか、彼女はブリーチで染め上げたツインテールを左右に揺らしている。ご機嫌そうで何より。
「そんでさぁ。ウチの彼ピんち行ったらさぁ、ベッドの下にエロ本あったんだけどぉ、まぢウケね?(笑)」
「ははは……」
ヤバい。どんどん毒が上回ってきた。
彼女は、私が属しているグループのムードメーカー的存在で、嫌われると必然的にハブられるのが目に見えている。
どうやら最近付き合い始めた彼氏(同じクラスメイト)は野球部に所属しているらしく、一緒に帰りたい彼女は終わるまで暇だったらしい。他の子たちはアルバイトなどでとっくに帰っており、断り切れない私だけが残っている状況だ。
どうにか自然に帰るきっかけを探していると、それは向こうから突然やってきた。
「あら? 坂町綺羅莉さんと大音 眉香(おおおと まゆか)さん、まだ残っていたんですか?」
教室のドアが開くのと同時に、担任である藤宮 香澄(ふじみや かすみ)がこちらに呼びかける。
周りを見渡すと、私たち2人しか残っていなかった。まぁ、部活動とか遊びに行くことを考えると教室に残ってる方が珍しいか。
「もーちょっとで帰るよぉ! 愛しの彼ピを待ってるのぉ~」
そう言いながら、彼女は猫のように机へ突っ伏した。どうやら教室籠城作戦は続行するらしい。垂らしてもらえた蜘蛛の糸は一瞬にして千切れてしまった。
「恋愛禁止とまでは言わないけど、校則の範囲でお願いね。それから教室を出るときは鍵を閉めて職員室に届けること!」
教卓の上に置かれていた出席簿を胸に抱えると、そのまま出て行ってしまった。どうやら忘れ物を取りに戻っただけらしい。
「そんでさぁ。そのエロ本ねぇ、グラビアとかぢゃなくて漫画だったんだけどぉ。ウチの彼ピおたくクンかよぉって(笑)」
「え? あぁ……うん」
まるで先生の介入がなかったかのように話を続けたので、思わず素のリアクションをしてしまった。普通ワンクッションとか挟むだろ。
「んでさぁ。没収して読んだらねぇ。なんて書いてあったと思う? むちぃ♥ だよぉ! むちぃ♥ って(笑) ありえねぇ(笑)」
どうやら反応さえあればいいらしく、私の微妙な相槌には特に触れてこなかった。
しかし、思春期真っ盛りの男子高校生からエロ本取り上げるってオカンかよ。そこは見て見ぬフリしてやれよ。あと「むちぃ♥」ってなんだよ。擬音として終わってるだろ。性欲がむき出し過ぎて気持ち悪いわ。
「ほんと、ありえないね(笑)」
などと言えるわけもなく、無難に返すので精一杯だった。
「こんな感じにさぁ。むちぃ♥ むちぃ♥ むちちぃぃぃ♥ って(笑)」
「お……おお! ははは!」
凄いなコイツ。恥も外聞もないのか?
普通に引いてしまったが、何とかアクセルを踏んでプラスの感情へ舵を切ることに成功……
「ほらぁ、まゆぽんもやって(笑) むちぃ♥ って(笑) おっぱい大きいからぁ、似合うと思うんだぁ(笑)」
したと思ったら、予期せぬ交通事故が発生した。なんだって?
「え、えぇー。恥ずかしいよー。あ、そう言えば駅前に新しいカフェできたの知ってる?」
嫌な汗が背中を伝うのが分かった。
私は露骨と分かっていながらも、無理やり話題を逸らそうとする。恥ずかしいのもあるが、それ以上に言うわけにはいかなかった。
私の中で擬音だと認識したその言葉を。
「ふーん。まゆぽんはウチが恥ずかしいことやってるって思ってたんだ」
彼女の目は笑っていなかった。
侮辱されたとか、そういった部分で不機嫌になっているわけではない。女子高生とは「ノリ」で生きるものであり、つまり「拒絶する=悪」なのだ。どんな理由であれ、それは揺るがない。
「い、いや……そんなことは……」
すかさず否定するも、それに意味がないことを私は知っている。
仮に一発ギャグを強要されたとして、それを行わずに白けさせるのと、それを行ってスベって白けさせるのでは前者の方が重罪なのだ。
「まゆぽんってさ……」
あの言葉をいわれたら……私の高校生活が終わる。
「なんか、ノリ悪いよね」
あ、マズい。
マズいマズいマズい!
このままだと私の肩書が「ノリの悪い女子高生」になる! そうなったらグループで陰口を言われ、徐々にハブられていく!
安易にその未来が見えた。
大丈夫、きっと大丈夫。
言ったって問題ないはずだ!
「む、むちぃ♥」
「……っぷ! むちぃ♥ やってくれるんかい(笑) やっぱ面白いねぇまゆぽんってぇ(笑)」
彼女は笑ってくれたが、その顔を見ることはできなかった。なぜなら私の視線は、机上の「それ」に釘付けだったからだ。
『むちぃ♥』
そこには足の生えた「むちぃ♥」の文字が鳴き声を上げていた。
【1】
私が擬音を使うと、それは架空の生物となって具現化する。今までの経験上、どうやら他の人には見えないらしい。
見た目はその文字を太くして現実に登場させたような簡素なデザインで、下の方に足? のようなものが生えて動いている。
この現象だが必ず起こるとは限らない。実際に、先ほどの「ハハハ」といった擬音に対して異常は見られなかった。今回も大丈夫だと思ったが甘かったようだ……
「んー? どったん?」
私の様子に不信感を抱いたのか、綺羅莉が首を傾げて尋ねてきた。
「い、いや……何でもな」
とっさに返答しようとしたその時。
『むちちぃ♥』
擬音生物は鳴き声を上げると、机から飛び出した。
「あっ!」
気付いた時にはもう遅く、その姿からは想像できないような軽快な走りで教室を出てしまった。
呆然と扉の方を見ていると、状況は一変した。
「きゃあああああぁぁぁぁぁ!!!!!」
廊下の方で藤宮先生の悲鳴が聞こえたのだ。
「うえぇ!? 今の声、かすみん先生だよねぇ? まゆぽん、見に行こぉ!」
「う、うん……」
野次馬根性丸出しで廊下へ飛び出す。しかし、私には何が起こったのか凡その察しがついていた。そして、安易に自分が擬音を使ってしまったことを後悔することになる。
「ちょっとぉ! なにこれぇ!?!?!?」
そこにはスーツでは抑えきれないほど、胸元が膨れ上がった藤宮先生の姿があった。
辛うじて服としての役割は果たせているものの、中に着ていたYシャツのボタンは弾け飛んでおり、辺りに散乱している。
まさに……
「うわぁ! かすみん先生って、めっちゃむちぃ♥ じゃん(笑)」
私は心の中で謝るしかなかった。
◆
あの後、混乱する先生を一度保健室へ連れていき、落ち着くまで付き添っていた。
原因が私にある(先生はそれを知らないが)以上、放っておくわけにはいかなかった。その際、綺羅莉が「彼ピの部活、そろそろ終わるからぁ」と言って普通に帰ったときはイラっとしたけれど。
泣いてしまった先生を宥めながら数十分ほどが経過したとき、膨れ上がった胸は萎み始め、元のサイズに戻っていた。
その状況に更なる不安を覚えていたようだが、私は""そうなることが分かっていた""ので、慌てず対処することが出来た。
そして学校を後にして今に至る。
「はぁ……」
夕日も沈み、街灯が点滅する帰路で私はため息をついた。先生には悪いことをしたと思う。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
擬音生物は何かに取り付くと、その擬音が意味する効果が対象に反映され、勝手に消えていく。どうやら効果継続時間が存在するようで、それが三十分弱。信じられないことだが、実際に起こっているのでどうしようもない。
憂鬱な気持ちを抱えたまま、歩を進める。
そういえば、いつからこの現象は起こるようになったんだっけ? 記憶が正しければ、少女時代なんて擬音を連発していた気がするが、特に変わったことはなかったはずだ。
気が付くと、家の前まで着いてたらしく、私は鞄から鍵を取り出して鍵穴へ差し込んだ。しかし、その感触に違和感を覚え、そのままドアノブを回す。
「あぁ、お帰りなさい」
「お父さん、ただいま。早かったんだね」
どうやら父が先に帰宅していたようだ。鍵穴に差し込む音を聞いて、玄関まで来てくれたらしい。
中学の頃、母が出て行ってから、男手一つで私を育ててくれている。昔は家庭より仕事を優先していたが、父子家庭になってからは今日のように早上がりをして、家族の時間を作ってくれるようになった。
靴を並べていると、リビングからいい香りがしてくる。
「もしかして、晩御飯ビーフシチュー?」
「そうだよ。ほら、手を洗ってきなさい」
ビーフシチューは私の大好物だ。喉を鳴らしながら早足で洗面台へと向かう。これでフランスパンもあれば言うことなしである。
「うわぁ! 美味しそう!」
「フランスパンも買ってきたぞ。眉香はビーフシチューにパン派だもんな」
手洗いうがいを済ませてリビングへ行くと、すでに盛り付けられたビーフシチューとサラダが置かれていた。それに加え、食べやすく切られたフランスパンもある。
「ありがとう! いただきます!」
笑顔で手を合わせた後、パンにビーフシチューを付けて口に運んだ。ほど良い甘みと肉のジューシーさが溶け込んでおり、それを染み込ませたパンはまさに絶品だった。
「すごく美味しい! 仕事も忙しいのにごめんね……」
「そんなの気にしなくていいから。眉香が喜んでくれるのが一番だよ」
あれ? そういえば何を考えてたんだっけ?
そうだ。私の変な力が、いつ頃から起こるようになったかだった。
「食べ終わったら、お風呂に入っちゃいなさい。沸かしてあるから」
「うん。分かった」
うーん……うまく思い出せない?
こんな劇的なこと、嫌でも忘れないと思うんだけどな。
「はぁ、ドラマ面白かった。そろそろいい時間だし、私は寝るね。おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
なんでだろう?
モヤモヤしながら自分の部屋へと向かう。ベッドに入ると、疲れていたのか自然と眠気が襲ってきた。
どれぐらい時間が経っただろう。眠っていた私はドアが開く音で目が覚めた。意識は朦朧としており、状況が上手く理解できない。
「はぁ……はぁ……いいよな? 今日こそいいよな? なぁ!」
勢いよく飛び出してきた何者かに、私は馬乗りにされ布団を剥がされる。ピントが定まらない視界の中、私はその正体をやっと認識できた。
「眉美ぃ! 眉美ぃ! 眉美ぃぃぃ!!!」
そこには目を血走らせて、下半身を露出させた父の姿があった。
「ちょ! やめて!」
「ゴムは!? いらねぇか! 愛撫もいらねぇ! 先走りが止まんねぇからローションもいらねぇ!」
股間部を見ると、それが怒張しているのが分かった。必死に抵抗するも腕力に差がありすぎて押さえつけられてしまう。このままじゃ……犯される!
「はぁ……はぁ……し、しなしな!」
『しなしなぁ!』
私が擬音を発すると、それは生物になって父の股間へ張り付いた。
すると、見る見るうちに勃起していた男性器が小さくなっていく。それを見た父は「くそっ! 今日もか!」と言いながら、何事もなかったかのように部屋を出ていった。
あぁ、思い出した。
正確には覚えていたけど、無理やり記憶に蓋をしていたのだ。
母が出て行ってすぐの中学一年の頃、よく父と喧嘩をしていた。夫婦間にどんなやり取りがあったにしろ、父子家庭になることを当時の私は簡単に受け入れることができなかった。
しかし、父の献身的な態度に私の気持ちは変わっていった。シングルファーザーで娘を育てる。その苦難な道のりを彼は投げ出さなかった。
次第に私も家事をするようになり、お互いがお互いを信頼し、支えあうようになった。辛くないと言えばウソになるけど、それでも失っていた笑顔は家庭に戻っていた。
そして月日は経ち、中学三年のある夜。お風呂から上がった私は、替えの下着を用意し忘れてしまい、仕方なくバスタオルを巻いて自分の部屋に向かおうとした。
その時、父がたまたま廊下に出ていてその姿を見られてしまった。さっきのように目を血走らせ、値踏みするかのように瞳孔は上下に動いていた。
恐怖で動けない私に、父は徐々に近付いてきた。口から漏れる吐息からお酒の臭いがしていたと思う。「眉美……眉美……」と母の名前を呟きながら、ズボンを下ろした。
父は私の姿に母を重ねていたのだ。
そこからは朧気だけど、とにかく身振り手振りに抵抗したり叫んだり罵倒したりしたんだと思う。そして、先ほどと同じ現象が起こった。
部屋の空気を嗅ぐと、やはりお酒の臭いがした。あの日以降、酔うと私に襲いかかることが何度かあった。その度に私はこの力で難を逃れている。
タチが悪いのは、このことを父が覚えていないことだ。内容が内容なだけに指摘もできず、誰かに相談もできない。
もし、急にこの力が無くなったら? その現象が起こる時と、起こらない時の条件も分かっていない。
「うぅ……」
悪臭の漂う部屋の中、私は大粒の涙を流しながら震えるしかなかった。
【2】
カーテンの隙間から朝日が差し込む。その光芒は閉じてるまぶたを焦がすように容赦なく降り注いだ。呻き声を漏らしながら目が覚める。気分は最悪だ。
私は起き上がると制服に着替え、心を落ち着かせるために深呼吸をした。
意を決し、階段を下りてリビングへと向かう。すると、そこには朝食がすでに並んでおり、飲み物をすする音が聞こえてきた。
「おはよう」
何事もなかったかのように座っていた父が、コーヒーを飲みながら笑顔で挨拶をしてくる。
「うん……おはよう」
私は挨拶を返した。上手く笑えていた自信はなかった。
◆
こんな精神状態でも、学校には行かなければならない。いや、むしろ家に居たくなかったから平日で助かったとも思える。
昼休み、私は椅子に座りながら思い耽っていた。
誰が見ても父が悪い。
それは分かっている。でも、仕方ないんだ。
母は出て行ってしまったし、育ててくれてる恩だってある。よくSNSで見かけるし、性的DV自体は珍しい話じゃないはずだ。みんな我慢してる。むしろ、避ける力を持ってるだけ恵まれてる方なんだ。
そう自分に言い聞かせる。そんなわけないのに。
「うぃーっす! まゆぽんちゃん! なになに? お疲れモード的な?(笑)」
急に話しかけられ、思わずビクッとなる。その声に振り向くと、そこには綺羅莉の彼氏である山村 浩二(やまむら こうじ)が立っていた。
「悩みごと? オレ聞くよ? そんな眉しかめてたら、可愛い顔もったいないって(笑) まゆぽんちゃんだけに(笑)」
そう言いながら顔に手を近づけ、眉をグイグイと触ってくる。そんな行動に苦笑いで返すことしか出来なかった。
正直、前々からボディータッチが激しく、その度に気が滅入っていた。今も鳥肌が立ち、服の内側と擦れて気持ち悪い。しかし、綺羅莉の彼氏である手前、強く拒絶することもできない。いつも時間が過ぎるのを待つしかなかった。
「つか、綺羅莉から聞いたけど、昨日かすみん先生が爆乳化したってマジ? ヤバくね(笑) 漫画みたいな話じゃん(笑) 写真見たけどさ、ぶっちゃけエロくね?(笑) ここだけの話、オレってエロ方面は二次元の方が好きでさ(笑) 規格外のデカさ、マジ興奮すんだよね(笑)」
私の反応など気にせず、自分の性癖について話し始めたのもだが、綺羅莉の行動にも絶句した。気付かなかったが、あの状況で先生に携帯を向け、その写真を第三者に見せるってどんな神経してるんだ?
胸の中で何かが沸き上がるのを感じた。俯きながらそれを抑えようと必死になっているところに、彼は耳元まで近づいて囁いてくる。
「家帰ってめっちゃシコったわ(笑)」
「……っ!」
私は、反射的に彼を手で払い除けてしまった。
「いやいや、冗談じゃん。え? なに? まゆぽんちゃんって下ネタ無理系女子?」
ワンテンポ遅れて何をされたのか理解し、彼は頬を引き攣りながら早口で何かを言い始める。
しかし、その言葉は私の耳を素通りした。反応しようにも、言いたいことが喉に引っかかって上手く話せない。
「ははっ……無反応とか困るんだけど、逆に。オレがやっちゃったみたいじゃん? めんど。つか、これぐらい普通じゃね? なにカマトトぶってんの? いやマジでさぁ……」
そして聞きたくない言葉が投げかけられた。
「ノリ悪いわ」
◆
「ほらぁ、まゆぽん。はやくゆってよぉ~」
放課後、体育館裏で綺羅莉とグループの数人に囲まれた私は携帯を向けられていた。
下品な笑い声や蔑んだ目線から友好的でないことは理解できる。どうやら山村があることないことを吹聴したらしい。昼間の腹いせだろう。
本当にくだらない。
「彼ピにさぁ、色目使ったらしいぢゃん? 普通にありえなくね? 欲求不満かよ(笑) だからぁ、お望み通りにぃTikTokでエッチな姿、撮ってあげるってゆってんの!」
そう言いながら私の上着を掴むと、思いっきり引っ張って無理やり脱がしてきた。「色目なんて使ってない。知らない」と何度説明しても聞く耳を持ってくれない。
彼女の中では「彼氏>私」の関係が構築済みのようだった。
「ほらぁ! 昨日みたいにむちぃ♥ ってやりなよぉ! その無駄に育った胸とか強調してさぁ! 彼ピに媚びたみたいにさぁ! つか、アイツも何なんだよ! そもそも彼女いんのに他の女に近寄んなよ! 前から『まゆぽんちゃんって胸大きいよね』とか言ってきてキショかったんだよ! クソが!」
叫びながら転がっていた石を、こっちに向けて蹴り飛ばしてくる。それは私の頬を掠め、痛みとなって襲ってきた。
後半の話を聞く限り、小さな綻びは前からあったようで、今回の件が決定打になったようだ。どちらにせよ私たちの関係は長くなかったらしい。
昼間の何かが沸き上がる感情と同じものを、今も感じている。そして直感的に理解した。きっとこの感情が力のトリガーであることを。
「いいよ。言ってあげる」
「はははっ! 拡散してあげるからさぁ! 身体目当ての彼ピできるといいねぇ! 売女がぁ!」
発狂する彼女に向けて言い放つ。
「むちぃ♥」
あの時も気付かないだけで思っていたんだ。性に対する擬音であるからこそ、無意識に感じていた。
『むちちぃ♥』
嫌悪感を。
その瞬間、綺羅莉の胸は膨張した。昨日の藤宮先生と同じように。
「ちょ! なにこれぇ! 痛い痛い! 締め付けられる!」
耐え切れず彼女は羽織っていた制服を投げ捨てた。それでも膨張は止まらず、恥も捨てて下着も脱ぎ始める。今では手で乳首を隠すのに必死だ。
「んだよこれぇ! かすみん先生ん時もだけど、コイツなんか変だって! 気持ち悪いんだよ! 治んだろうなコレ! なぁ!?」
殺意の混じった怒声で問いかけてくる。普段の可愛い子ぶっている彼女とは正反対の、般若にも似た表情にギャップを感じて笑いが込み上げてきた。
「よかったじゃん。彼氏好みのエロい身体になれて」
心の中で学園生活に別れを告げる。
きっとハブられるだけでは済まないだろう。虐められるかもしれない。不安しかないはずなのに、なぜか心はスッキリしていた。
私はそれを捨てセリフに、背中へ飛び交う罵声を無視して体育館裏を後にした。
◆
「はぁ……やっちゃったなぁ……」
私は浴槽に浸かりながら天井を眺めてつぶやく。
あの後、小走りに家へと帰宅した。鍵は閉まっており、昨日のこともあって父がまだ帰って来てないことに安心した私は、今のうちにお風呂を済ませることにした。
明日からどうしよう。
あの時は後悔なんてしないと思っていたが、時間が経つにつれ、事の重要さに気が付き始める。どうしようもないけど、それでも考えてしまうのが思春期というやつだ。
まぁ、無理して付き合ってたのも事実だしなぁ……正直、あのノリに合わせるのも辛いと感じていた。いい機会だったのかもしれない。
「仕方ないよね……うん」
そうだ。買っていた漫画でも読んで元気を出そう。そう思い、浴槽から出てバスタオルを手に取る。
「あれ?」
急いでいたからか、替えの下着を置き忘れていたようだ。それと同時に何か違和感を覚える。
先ほどまで履いていた下着が洗濯カゴから消えていた。明らかにお湯ではない液体が皮膚を流れ落ちる。入浴前に閉じていた洗面所の扉は少しだけ開いており、そこから微かに光が漏れていた。
消していたはずの廊下の明かりが付いている。
私はバスタオルを身体に巻いて、息を殺しながら自分の部屋へ向かった。そんなはずはない。階段を一つ一つ上るにつれ、比例するように心臓の鼓動は大きく鳴った。
扉の前に立つ。普段は流れ作業のように捻るドアノブだが、今では業火に手を伸ばすのと同じ気持ちに感じる。
開けちゃダメだ。
心の中で何度も警告音が響き渡る。きっとここを開けてしまったら何もかもが終わるように思えた。
今ならまだ引き返せる。
しかし、そう思ってもドアノブを握った手が硬直して離れない。必死に抵抗するが、重力に逆らえず腕は徐々に降下していった。
そして、ついに扉の向こうを映し出す狭い隙間が生まれてしまった。
「眉香……眉香ぁ……! クソっ! パンツにエロい匂い染み込ませやがって! メスくせぇんだよ! 舐めやがって……今夜こそ犯してやる! はぁ……はぁ……!」
そこには父の姿があった。
左手で私の下着を嗅ぎながら、怒張した股間をシゴいている。ベッドの上で行為に及んでおり、先から垂れた汁が枕を汚していた。
「あの女の名前よんで酔ったフリすれば同情でヤラせてくれると思ったのによぉ! クソっ! 酒のせいか途中で萎えるんだよなぁ! もしくは年齢か!? いや、この勃起具合ならあり得ねぇか! 早く中出ししたくてたまらねぇ!」
お父さん、嘘だよね?(キモチワルイ)
魔が差したんだよね?(キモチワルイ)仕方ないよ!(キモチワルイ)お母さんもいないし(キモチワルイ)ここで声をかけたら(キモチワルイ)キモチワルイ(きっと傷つけちゃう)キモチワルイ(だから黙ってないと)キモチワルイ(私が我慢すれば)キモチワルイ(これからもずっと……)
え?
これからも?
これからも続くの? ずっと?
「お前の……」
もういいや。
「お前のせいで……」
くだらない。
「お前のせいで家族がバラバラになったんだろ」
『バラバラ!!!!!』
ぜんぶ壊れちゃえ。
目の前に現れたバラバラの文字をした生き物は―
わたしのパンツをバラバラにした。わたしの父をバラバラにした。わたしの部屋をバラバラにした。わたしの家をバラバラにした。わたしの通う学校をバラバラにした。わたしの歩いた街をバラバラにした。わたしの住んでる県をバラバラにした。わたしの生まれた日本をバラバラにした。
何度も消えて、何度も生まれて。
わたしの世界をバラバラにしてくれた。
【3】
きょうは、にちようび!
パパとママがおやすみなので、かぞくでこうえんにいきます!
ママは、お弁当をつくってくれました!
パパは、シャボンだまを買ってくれました!
公園のちかくには、かわが流れていて、そこでシャボン玉をあそびます!
たくさん遊んで、たくさんたべて、とっても楽しい!
パパと、ママと、だれが一番大きいかしょうぶです!
たのしいな! 楽しいな。
家族全員で手をつなぎ、空を漂うシャボン玉を眺めるだけの時間。
あぁ、この時は本当に……。
幸せだったなぁ。
「ふわ……ふわ……」
『ふわふわ?』
今日も私は、バラバラの世界で夢を見続けるのです。