毒親知って欲しいこと

毒親持ちママが思う「これ了解されてたら生きていきやすい」かもしれない、たった5つのこと

毒親持ちの生きる世界は、世知辛いです。

同じ「毒親持ち」であっても、現在の状況は様々です。
まだ実家で暮らしているかどうか、といった物理的な環境の違いはもちろんのこと、
毒親のもと、機能不全家庭に置かれていた過去をどのように捉えているか、
いまいる環境への満足度や、受けられるサポートの差によって異なります。

たとえ条件が全く同じでも、個人によって状況をどう認識するかが変わってくることもあるでしょう。

そういう違いがあるので、これはあくまで「私は」の話ではあるのですが
毒親持ち、
毒親生まれ毒親育ちにはなかなか世知辛いことの多いこの世の中で、
せめて「これが了解されていたら、もう少し生きやすくなる気がする……」って思ったものを
とりあえず5個くらいにしぼって書いてみました。

毒親持ちの人もそうだけど、
毒親持ちの知り合いがいるとか、毒親について考えてるとか勉強してるとか、
なんか「毒親持ち」に対してちょっと言いたいことがあるとか、
そういう人たちが読んでくれるといいな。

1、毒親≒虐待親

「≒」は「ニアリーイコール」です。
ほぼ同じ、っていう意味です。

毒親の定義って、ざっくりいうと「毒になる親」です。
どういう毒を出してくるのかはご家庭によって違うと思いますし、
たとえば同じ言動でも、子ども次第では「毒」ではなく「愛」とだけ呼ばれるものかもしれません。

「愛」は万能薬でもなんでもないので、「毒、かつ、愛」という状況もありえます。
っていうかめちゃくちゃ多いと思う。

いずれにしても毒親は、その子どもにとって「毒になる親」である、と言えます。

で、ですね、この「毒親」なんですけど
「虐待親」と比較されてどうこう言われることがあります。
「毒親って言っても虐待するような親と比べればマシ」とか、なんかそういう。

いえいえ、毒ってね、蝕むんですよ。
下手すりゃ死ぬんです。
子どもに毒飲ます乗って虐待じゃないですか?

子どもにとっての毒親は、虐待親です。
そういうことです。

さて、ここで問題です。
ではなぜ、私は「=」ではなく「≒」と書いたのでしょうか。

正解は
「うちの親は虐待親とまでは言わないけど毒親だった」と考えている、毒親育ちさんたちがたくさんいるからです。

このニュアンスの違いって、すごく大事なんですよ。
だってね、”被害”を認めたり受け入れたり、ともかく「自分は被害者だ」って言うのって、すごく難しいことなので。

「自分は虐待被害者だ」って認めることって、時々「私は死んでもいい人間扱いされていた」って認めることと繋がっちゃうことがあります。
貴重な貴重な子ども時代を、ドブに捨てるより酷い経験で生き埋めにされちゃうのって辛いです。
息ができなくなるくらい。

だから、
自分を「虐待被害者」とは言えないけど「毒親育ち」っていう風にだったら表現できるよ。
という人たちにとっては、
「虐待親」と「毒親」の言葉の違いってすごく大事です。

そういう人たちも、いつかは「虐待親」という言葉を使うようになるかも(ならないかも)しれないけど、そのタイミングを決めていいのは、あくまでその人たち、本人たちだけです。

あとね、
「虐待親」って言葉だと、親の言動にスポット当ててそれが”虐待”かどうかで外部的に判断される言葉って感じの印象が強いけど
「毒親」なら、あくまで大事なのは子どもの主観であって、
子どもにとって「毒になる親」なら全て毒親なので、
つまり子ども側の感じ方だけで「毒でした」って言える感じがするじゃないですか。

「これは虐待とまでは言えないかもしれないけど、”私にとっては”間違いなく毒親だ」って言える。

この辺の話は、この記事でつらつら〜っと以前書きました。

たかが言葉遣い。されど言葉遣い。
ときどき、”専門家”の看板持ってる人たちがツイッターとかのいろんな人が見てるメディアで
「毒親」呼称をこき下ろしていることがあります。
「いや、毒親ってつまり虐待親だから。毒親とか”マイルド”な言い方してるから虐待の定義がいつまでも定着しなくて」云々。

専門家同士の会話とか、法律とか行政とかでどう扱うかとかでの話なら、わかります。
実際に「虐待」の定義って、世間一般で”虐待”でイメージされているものよりももっともっと広いものだし。

でも、それは不特定多数に向けて、
っていうか毒親呼びを選んでいる毒親育ち(=毒親被害者)も含めた対象に対して言うことじゃないです。

”専門家の定義”より、当事者の声を優先しろっつー話。
当事者の声を優先できない専門家って、価値ないですよ。

で、結局じゃあどうすりゃいいのかと言えば
・毒親ってつまりは虐待親なので、”毒”を過小評価しないで欲しい
・でも毒親持ちは「毒親」と「虐待親」と言う言葉を使い分けてることがあるので、むやみやたらに「毒親」って言葉を虐待親変換しないで欲しい

の2点です。

矛盾したこと書いてるようですが
この矛盾は両立できるので大丈夫です。

「うちの親、毒親だったんだよね」って言われたら
「そうなんだ、毒親だったんだね」って返してくれたらいいです。虐待親だったんだね、って勝手に変換した言葉で返さずに。

その時に心の中で、毒を虐待と比較して矮小化しないでくれたらいいです。

当事者の声を否定せず、批判しないで欲しいということです。
まずは、それだけでも随分と楽になれる気がします。

2、「でも(兄弟・姉妹)見てるとそんな酷い親に見えないけど」は通じない

毒親って、外面が悪くないことも多いです。
DV野郎の外面がいいのと同じです。
外から見てると「普通にいい親」なことも少なくないです。

で、この現象が家庭内でも起こることがあります。
「下の子から見たらそれほど酷い親じゃないけど、上の子からしたら地獄」みたいなこと。

たとえば子どもが2人いたとき、
片方の子どもを守って可愛がるために、もう片方を選んで潰す
とか、たぶん普通にあります。
選んでます。
無意識に選んでることもあると思います。

親もそうでしたが。

うちは父親が劇毒で
こっちはもうなんの疑いもなく、(経済的及び精神的)虐待・DV・浮気という3拍子揃ったダメ九州男児だったんですが
母親の方は、被害経験を拗らせたまんま子ども(私)に向けちゃう系の毒親でした。

うちの母は、生家の母とうまくいってなかったみたいなんですね。
兄がいる人なんですけど、兄がいろいろ”得”して育ったのを見ていて「上の子はズルい」っていうのを、
ものすごく強く感じていたみたいです。

で、ご自分の経験をもとに、うちでは妹がいろいろ”優先”されていたんですけど、
そんな中でも私は「あんたは上の子だからずるい」ってずっと言われてたんですよねぇ。

母が言うような「ズルい」想いや経験を、私が味わったことって全然なかったんですけど
母はすでに、自分の経験をベースに認知の不具合を起こしていたんでしょうね。

あと私は父親と顔が似ていたので
「お前は父親と似ているから」
強いし、言いたいこと言ってばかりだし、羨ましい。と、毎日のように言われていました。

実際は
「お前が父親の言うこと聞かないと私(母)と妹が困る」って言って差し出されて
守ってもらえることがなくて、常に針のむしろって言うかサンドバッグだったんですけども。

母の中での私は
「いい想いばっかしてたのにワガママ」
「こんなに愛してるのに伝わらない」
という感じで、結論として私に対しては
「いろいろ我慢してきてやったのにわかってくれない」っていう被害者意識と、
「あんたは妹と違って昔からしっかりしてた()から頼りにしてたのよ、あんたがいないと私は生きていけないの」みたいな依存意識を持っているようです。(この数年の関わりの中でそんな感じらしいとわかりました)

同じ親だけど、私にとってのあの人たちは、妹にとってのあの人たちとは別人です。

妹の育てられ方、私と全然違いますもの。

同じ親だけど、別の親。

同じ家庭で育ってもても、本当に、まるっきり別の育ち方をしているから
姉妹・兄弟を見ていても、親のことはわからない
です。

わからない、ということをわかって欲しいです。


3、孫への態度が違うなら祖父母としては問題ないだろう

これは、あれです。
「夫は私にはDVを振るう人だったけど、子どもにはそういうことないから……」
っていう、DV夫を持つ妻のジレンマと同じようなことだと思います。
(夫婦・加害被害関係は逆にしてももちろん同じ話ですよ)

これね、すごく難しくて
「子どもにはそういうことないから」本当に大丈夫なケースもある一方で(子どもの前でDV言動を一切見せていない前提で)
そうじゃないケースも、もちろんあるでしょう。

私の子にとって、生家の親たちは
”いい”じーじ・ばーば、だったりします。

うちの子も好いてる”いい”じーじ・ばーばを、子どもから取り上げるのもどうかと思うので
子どもが会いたいと言えば、まぁ月に1度くらいは会える機会を持っているのですが

これがね……結構、辛いんですよ……。

そもそもですね、
毒親は、私にとっては私を殺そうとしていた人たちなわけで、
大事な我が子を心から安心して任せられるということがないわけです。

反省のそぶりを見せたことがなく罪を償うこともしていない殺人犯に、自分の子どもを安心して預けることってできないでしょう。
それと同じことです。
同じことなんです。

あとまぁ、単純に毒親sを一生許すことのない、私の中の私が暴れ出すっていうのもありまして。
一生顔も見たくないし、なんというか関わりたくない、感知したくない人たちに会う苦痛。

子と毒親たちとを交流させると、決めているのは自分自身なので、仕方ないといえば仕方のない状況ではあります。
言いたいのは、
「昔は色々あったんだとしても、親も丸くなったみたいだし」とか
「親としてアレでも、やっぱり孫ができると違うんだね、関係よくなってよかったね」とか
「子どもと会わせてるってことは、なんだかんだ言ってそんな仲悪いわけじゃないんでしょ」とか
決めつけないでね。ということです。


4、毒親のもとで育ったことは、自分も虐待親になる未来を確定はしないけど、いい親になれる約束もしてくれない

たとえば体罰受けてきた人が
「自分は殴って育ててもらった! 感謝してる!」とか
「これくらいで暴力とか甘い!」とか言い出して
「いやぁ……そんな認識になっちゃうようじゃ、やっぱ体罰ってダメだよね」って論の根拠になるみたいな
それと似たような
被害経験がもとで将来は加害者になってしまったり、加害を容認したりして作り出しちゃったりする構図は
確かにあるけど
そういうケースばかりではないです。

「やっぱ暴力だめだよね」
「自分やられてきたけど死にたかったし、思い出すと今も死にたいよ」
みたいな人もいて、
そういう人たちの声のいっこいっこが、次の被害を防ぐ契機になることもありますね。

被害を受けた人がどちらのケースになるか(もしくはどちらにもならないか)は、
本人の努力とかもあるかもだけど、
運とか環境とかによるところも大きいです。

毒(虐待)親のもとで育つと毒(虐待)の連鎖が起きる
なんて未来は決まってない。
けど
毒親だった(虐待されていた)からこそいい親になれる
なんて言えるほど、簡単でもないです。

たとえば
自分の子どもに対する怒り方が「異常だ」と思っても、
じゃあどうなら異常じゃないのか、正しいのか、どうしたらいいのかはわからない。
とか。

ご飯をちょっとこぼしてしまっただけで3時間正座させられ、耳元で怒鳴り続けられ、かつなぜか翌朝母親に「お前のせいで私と妹も怖い想いをした」と責められ1週間口聞いてもらえなかった
みたいな(私のような)日常を送っていた経験があると、
子どもが「自分の言うことをきかない」ことにどうしようもない焦りと苛立ちを感じてしまうとか。

自分が絶対に、決して許されることがなかったから、どうやって許せばいいのかわからないとか。
「言うこと聞かなきゃ酷い目にあうよ!」って焦りが「恐怖」につながっていて耐えられない。とか。

コントロールが難しい。
コントロールできないわけではないけれど、ひどく疲労困憊してしまうような。

子育て、というか人生ってイエスノークイズじゃないから、
自分の知ってる「間違っている行い」を「裏返したら正解になる」みたいにはできないんですね。

裏表じゃないから
モデルにできるケースがなく、常識が破壊され、精神的支柱もないまま、模索しなければいけない。

そういう中でもがいているので、
「連鎖が〜」とか「辛い経験をしたからこそ〜」とか、簡単に言わないで欲しいです。


5、愛情の話を混ぜ込まないで!

最後の話は単純です。
毒親とか虐待親とかの話をしている時って、「愛情」の話はしていないので、勝手に混ぜ込まないで欲しいです。

自覚がなくとも、”愛情至上主義”みたいな人って結構多くて
「子どものこと本当に愛しているなら**なことしない」
とか
「**することを愛とは呼ばない」
とか
なんかそんな言葉を聞くことがあるんですけど

愛情があるってだけで不適切な養育をしないですむなら、そんな簡単なことないですよ。
愛情があれば、どの親も「正しく」育てられますか?
愛は万能薬ですか?
愛があればオートマチックに全てが正しく運びますか?

そんなわけないんですよ。

私は子どものことを愛していますが
それは、私が子どもを完全に適切に養育できることの保障にはなりません。

私の毒親たちは、私のことを確かに愛していたでしょう。

超毒親の父も。
甘え、依存し、私を一環として「加害者」扱いしていた母も。

しかし、愛の価値の話はしていないし、愛の定義の話もしていないんです。

子どものことは可愛い。愛している。
でも「愛」と「適切な養育」とは別の話なので、混同しないでください。

そして、「愛」は免罪の理由になりませんので。


まとめ

1、毒親「≒」虐待親

2、同じ家庭に育っても、姉妹・兄弟にとっての親と毒親とは全く別物なことがある

3、「孫への態度が悪くないなら、問題ない」わけではない

4、機能不全家庭育ちでも「連鎖」の呪いは決定ではないが、「反面教師」にできるほど簡単な話でもない

5、毒親・虐待親と「愛情」の話は関係ない


おわり。

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