「虚像」と分断について思ったこと
虚像とは、実態とは違う人物像のこと。
“誰かに都合のよい理想像”と言ってしまってもいいかもしれません。
この、虚像、という壁の厚さについて、苦い思いをすることが多くあります。
虚像を作り上げられてしまうことで、とりわけ不利な立場にいると、「より不自由な立場へと追いやられてしまうことが多い」ように感じられるからです。
今日、この記事を書こうと思ったきっかけは、以下のツイートを目にしたからです。
私はこういう、
“あるべき理想の像”を作り、それを用いて論を組み立て、自説の補強に使うような物言いを好みません。
「被害にあっても不思議じゃない人」なんていない
一流大学に通うような“優秀”なお嬢様は被害にあわないのが普通、
という前提での話は、
“優秀”じゃない人なら被害にあっても不思議じゃない、という前提をも内包しています。
「優秀なら被害にあわないってことは、被害にあったら “愚か”ってこと?」って話にもなります。
氏にそのような自覚・認識があったか否かは、極論としては、もはや関係ありません。
“優秀”(なのに被害にあってしまった人)、という言葉を使ってしまったことで
意図や自覚や認識があろうとなかろうと、そういう構図ができてしまう。
被害にあわないなんて保障された人はいないし、
被害にあっても当たり前、なんて人もいないし、
被害者が“優秀”であるか否かなんて関係ないのに。
被害者の能力や属性や有り様がどんなであろうと、被害にあわないのが当たり前であるべきで、
そこに原因が求められるのは不当なのに。
このような分断は、とても危険なものです。
“支援者”の立場にいる人からの発言であった場合には、特に。
被害者落ち度論に直結しているだけでなく、
被害者の「相談しよう」と思う気持ちを挫くからです。
そのため私は、この発言をしたのが弁護士さんであり、
かつ、日頃から支援者側に立っている、というスタンスだったはずの人であったことに、
大きな落胆と断絶とを感じました。
そして、
専門知を持った人への相談を促すこともあった立場としては、憤りを。
“本来は被害になどあわないに決まっている優秀な人”と、“被害にあっても不思議じゃない、優秀ではない・愚かな人”、という分断は
“被害にあわない普通の人”と“被害にあった特別な人”、という分断とも地続きです。
「そんな愚かなことさえしなければ、普通、被害にはあわないだろう」という思考を招くからです。
少なくとも、親和性は高いように私は感じています。
事実相違であり、これでは支援を必要としている人たちの姿を見誤るのでは、と思いました。
被害者たちの目の前で、支援の門戸を自ら閉ざすようなものじゃないか、とも。
「スティグマの強化」は、追い詰められた人を増やすだけ
「こんな“愚かな”道に、普通は進むはずなんてないのに」というスタンスでいる相手では、相談するのは困難です。
自分はなんて取り返しのつかない失敗をしてしまったんだろう、と感じさせられてしまいます。
「こんな“愚かな”道」を自ら選んだ被害者は、さらに相談し難いでしょう。
自分の選択を頭から“愚か”なものとして扱うような人になんて、最初から近づきたくもないでしょうから。
性的被害に関しては、こうした
あるべき像、虚像を用いた物言いが多くされますね。
「援助交際」という名の、未成年者への性的搾取についての話題が、今以上に流行していたとき、
「普通の女子高生までもが」
「一見マジメな女子高生が」
といった物言いが、多くされました。
そして「女子高生」は、
・被害に合いそうな(チャラついた)子
・被害にあわなそうな(“普通”の)子
とに分断されました。
事実とは違うのに、勝手に、虚像を作られ、支援者・保護者ぶった人たちに「対策」されました。
結果、
前者は「“愚か”で、自ら『援助交際』しそうな問題児」として不当に扱われ、
被害にあって相談しようものなら「叱られる」ようにさえなりました。
素行不良児として、“更生”が必要だ、というような視点で。
後者に対しては「愚か、というレッテルを貼られたくないから」と、より相談し難くなるような、強い抑圧を与えました。
分析されるべきは被害者ではなく、加害者側のはずなのに。
対策されるべきだった対象もまた、加害者側のはずなのに。
AV強要問題と「援助交際」とでは、被害者が未成年者であるか否かの違いはあります。
大きな差です。
しかし、
第三者による「虚像」を用いた分断によって、より深刻な事態が引き起こされる可能性が高い、という点は共通していますね。
かつ私は、今回なされた分断は
たとえば自らAVに出演しようと考えた被害者を「“愚か”で問題のある女性」として扱い、“更生”させようとするような動きにも勢いを与えてしまうのでは、という危惧もしています。
スティグマの強化への危惧です。
強要や、合意していない内容に従事させるようなことが問題なのであって、AVに出演すること自体は、”愚か”なことでも悪いことでもないのでは。
”愚か”であるかのように語り、悪いことであるかのように対策しようとするのは、違う。
必要なのは、「安心して・安全に仕事ができる環境」と「権利の保障」のはずです。
スティグマの強化は、労働環境の整備や権利保障への道を阻害し、従事者をより危険な場所へと追い詰めることにしかなりません。
たとえその意図がなくとも、
またもし、善意や信念や正義感のようなものに裏打ちされた思惑が背景にあったのだとしても。
“支援者”の立場にあろうという人たちには、
どうかその点、繊細な配慮をしていただけますようにと、願ってやみません。
……虚像をこわすために、じゃあなにができるだろうかと、しばしば考えることがあります。
でもその答えは、結局いつも同じです。
「虚像をつくり、押し付けてくる人らが変わる以外には、根本解決はない」。
実際を知らないだけだとか、マーケティングミスだとか、いろいろ言われていますが
わざわざ虚像なんてものをこしらえて押し付けてくる人たちは、
“実際”なんてものに興味はないのだろうし、見たくもないのだろうし、だから見ないんだろうな、と感じさせられてしまうこともしばしばです。
対象が“虚像”通りであってくれた方が、都合がいいから。
加害者が消えなきゃ、被害者は消えない。
同じことです。
だから、虚像という枠を押し付けられてしまったら、
「それはデタラメだよ」
「嘘だよ」
「やめろ」
「いい加減黙れやコラ」
って
面倒だけど、言い続けるしかないんだろうなと思っています。
「被害者」の「私は被害者です」って話は、その被害を「たかがそれだけのことで」って思ってる人からしたら、雑音でしかない。なんてことだって、知ってはいますが。
そこはまぁ、仕方がないです。
それでも、
虚像をつくって立場を安定させたい、安心したい人たちがふさいだ耳の奥に声を届けるには、
そのふさぐ手を通り抜けるだけの声を出すしかないので。
構造の問題でもありますので、
ふさぐ手を通り抜け、耳の奥に届いたところで
拒否・拒絶されたりもするのでしょう。
そうできるだけの強者性がある以上。
でもいつか、
いつか、声のほうが大きくなれば、拒否も拒絶も通じなくなるようなことも、あるでしょう。
こうして声を出し続けたいなと、思ってるうちはそうしたいなと、あらためて思ったのでした。
みんなに「言え」なんてことは言わないし、本当に面倒でもあるんですけどね。
おわり。
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