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サンデル先生の「正義」の授業EPS4-1〜この土地は私の土地〜

12EPS(各EPS前・後半)の全24回を週2回のペースでアップします。

第7回:EPS 4-1(前半)

This Land Is My Land(この土地は私の土地)

前回学んだリバタリアニアニズムの根幹である自己所有権の理念の生みの親、ジョン・ロックの主張を学ぶ。

米国独立宣言冒頭でトーマス・ジェファーソンは、全ての人間は平等に作られており、人には不可譲不可侵の自然権が備わっているとした。そしてその自然権は生命自由幸福追求

(この思想は日本国憲法にも。13条:
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

これはジョン・ロックの思想。ジョン・ロックの設定する自然権は 生命・自由・財産 (と、健康であるが、サンデル先生は省いて説明している)。トーマス・ジェファーソンはロックの「財産(property)」を「幸福追求」に変えた。

政府や社会がやって来る前の自然状態(state of nature)に私たち個人には既に自然権があり、例え民主主義的に選ばれた政府でも侵すことができない。私たちは自由で平等。自然状態で個人同士の間に上下関係はない。生まれながらにして王だったり、生まれながらにして奴隷である事はあり得ない。そして私たちの自然権は不可譲不可侵(unalienable) 。人から奪ったり、自ら手放す事ができないもの。

この不可譲不可侵というのがミソ。私たちは自由である。でも自由に自然権を奪ったり、そして手放したりはできない。

自由に縛りがあると言っている。

私たちは自由だ。しかし自分の命を絶ってはならないし、自由を放り投げ自分の意思で奴隷になる事もできない。それが政府の施行する法とは違う自然法であり、私達の自由を制限する。

なぜか。理由は二つ。

1。私たちの自然権は実際私達のものではなく、神のものであるから。

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2。私たちは自由ではあるが、他人の権利の事を考えればなんでもかんでも好きなようにして良いと言う訳ではない。

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この自然権の不可譲不可侵の縛りにより、ロックの自然権利の主張は相反する二つの特徴を内包する事になる。権利を放棄する自由がないと言う事はその権利が完全に自分のものでないと言う事。しかしもう一方で同時に不可譲不可侵であるからこそ自然権が完全に自分のものである、とも言える。

もう一度。自然権生命・自由・財産

政府や社会がやってきてそれを認定する前から、個人に備わっている権利。生命と自由はなんとなくわかるが、なぜ財産(property=不動産や知的財産も含む)?

自己所有権をもつ個人がその体を使った労働は完全にその個人のもの。

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よって今まで誰のものでも無かった「モノ」はその労働と混ざるとその人のものになる。他の人の分も残しておく限り。

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私たちは自分と言う存在の唯一無二のオーナーである(自己所有権)

従って私の体が行う労働は私個人が完全に所有している

そしてその労働と混ざった「モノ」には所有権が発生し、私のモノになる。

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そしてそれは私の収穫した果物、狩猟した鹿肉、釣った魚だけでなく、耕し、囲ったその土地も、所有物となる。

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前回まで学んできたリバタリアンの主張とロックの主張は、自然権(生命・自由・財産)を自分の好きなように(あげたりとったり)して良いと言う訳では無い、と言う点で意見が分かれるが、自己所有権からの労働の完全所有、そして労働の賜物である財産も同じ、と言う論理の展開は同じ。

さて、土地所有。耕し、囲って、発展させればその土地がその人のものになる、と言う考え方。ここは議論を生むところ。

土地ではなくて例えば知的財産、医薬品特許の国際的争論の例。南アフリカでエイズが蔓延していた時、その薬はアメリカの企業がライセンスを持っていた。しかし純正の薬は高すぎてとても国民を救えないと判断した南アフリカは、インドで生産されるジェネティック版を購入すると決める。アメリカは企業とともに南アフリカ政府を訴える。アメリカの企業が巨額投資をして研究・開発した特許のある医薬品だ。「海賊版」を買うとはけしからん、と言う訳だ。最終的にはアメリカが折れたが、この争議はジョン・ロックの自然権の主張に深く関わる問題。知的財産がどこまでどこひとつ所に所有されるかを国家間の同意によって調整している例だからだ。


ロックの財産権を自然権(政府介入不可、同意を必要としない)とする主張に説得力あると思う人。

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説得力ないと思う人。

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批判者から意見を募る。

(生徒#1、ラシェル)
「当時の北アメリカにおける欧州入植者の理論だと思います。入ってきて、耕せば、自分のものになると言う事ですから。」

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英国の植民地拡大を肯定するための理論だ、との主張。

(サンデル先生:嬉しそう)「興味深い歴史的見解です。しかし、ロックの主張自体はどう思いますか?先住民は土地を囲っていなかった。ロックの主張(耕して囲えば私の土地)は正しいが、入植者を正当化してしまうと言う事ですか?それとも、入植者の土地の奪取は倫理的に許されるものではないから、ロックの主張は正しくないと言う事ですか?」

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(ラシェル)「後者です。」

この意見を踏まえてロックの主張を擁護できる人。

(生徒#2、ダン)
「本の中でロックはどんぐりを一つ拾ったり、りんご一つもいだり、バッファローを一頭狩ればそれは労働となり、そこの土地を使用し、囲った事になる、と言っているので実際にフェンスで囲ってはいなかったかも知れませんが先住民はロックの倫理では土地を所有していた事になると思います。入植者達はロックの倫理上の正義を破りましたが、先住民側にロックがいなかったため、彼らは自分たちの権利を主張できなかった、と言う事。」

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(生徒#3、ファン)
「ロックはすでに公共のものとして使用されているモノは私的所有はできないと言っています。先住民はすでに文明を持ち、土地を使用していたので、その意味でも入植者は正しく無かったと言えます。もう一つ、私的土地所有の但書で”他の人にも十分行き渡る分が残っている限り”、とあります。」

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ロックの主張を正しいとした上で、入植者の先住民からの土地の奪取を倫理的に批判できる、との二つの意見。


まとめ

前回までリバタリアンの主張を見てきた。徴税が倫理違反だと言うリバタリアン。その主張をジョン・ロックが裏づけするかどうかを検証している。

政府が決める規則や法よりも先に私達が持っている自然権。生命・自由・財産。政府はこれを侵す事があってはならない。ここまではリバタリアンが喜ぶ結果となっている。

ただし、何を持ってして生命とするか、何を持ってして自由とするか。そして何を持ってして私的財産とするのか。個人が社会の中で暮らすからにはそれを定義するのも政府なのだ。

ロックが言う理想的な政府とは何か。政府の正しいあり方についてのロックの主張は次回


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