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サンデル先生の「正義」の授業EPS2-2〜快楽の測り方〜
12EPS(各EPS前・後半)の全24回を週2回のペースでアップします。
第4回:EPS 2-2(後半)
How To Measure Pleasure(快楽の測り方)
後半。24:40~
ベンサムの功利主義について。前回からの続き。
「一人殺して五人助かるならそうした方がいい。」
人間は快楽と痛みに支配されている。快楽を正、痛みを負で計算し、コミュニティーの快楽が最大になるような行いが「良い行い」とするお役立ち精神が功利主義。
これに対しての反論は大きく二つ。
1。個人の権利を蔑ろにしがち
2。全ての価値を数値化できるのか?
1は例えば「有益な情報を得るためにテロリストを拷問するのはオッケーですか?」と言う問題。
2の例。サンデル先生は七十年代にオックスフォード大学に行っていた。その頃にはまだ共学ではなく女子姉妹校セント・アンズ大学があった。そこで女子学生が、寮に男子学生を宿泊で迎える事を一応禁止したけど、七十年代に別にそんなルール要らなくないですか?との声が高まる。
学校の教員達は古い価値観だったので、男子生徒の訪問を許したく無かった。しかし「時代遅れの価値観」と言われることも嫌だった。
なので、改変反対派は「男子生徒の訪問には金がかかる。シャワーも浴びるし、シーツも取り替えないといけないし。」と功利主義に落とし込んで議論した。
改変擁護派は「それではその分男子生徒に課金すればいいんじゃないですか?」と計算した所一泊50ペンスと言うことになった。
翌日の新聞にデカデカと「セント・アンズの女子学生は一晩50ペンス!」と見出しが載りました。(爆笑)
この例は冒頭の功利主義批判のうちの一つ、「金のような一律の基準に全ての価値を落とし込めるのか?」と言う問題。この批判は「一言に快楽と言っても、色々ないですか?」と言う点も含む。
ベンサムの功利主義は「いい快楽」「悪い快楽」などと快楽の種類を区別せず、快楽は快楽と一つに数えて平等に扱う。その程度と長さは考慮に入れるがその種類に上下はつけない。
「子供の遊びと詩の朗読は同じ快楽だ」とベンサムは言った。
モーツアルトが好きな人、マドンナが好きな人。同じに数える。
バレーが好きな人、ボーリングが好きな人。同じに数える。
そう言うこと。
でも、そうだろうか?
例えば前回出たローマ人がクリスチャンをライオンと戦わせてそれを観戦する、と言うケース。功利主義的に言うと「少数が痛がったり死んだりしてるけど物凄い数の人の楽しみになっているのだから、プラマイで言ったらオッケー!」と言うことになる。そこで感覚的に、功利主義おい!となる。
その批判はまずクリスチャンの権利を犯している、と言う功利主義批判の第一項の理由もあるが、第二項の「人が痛がってるの見て楽しい、ってその快楽どうなのよ。そう言うの他の快楽と同じに数えていいの?」と言う所でも批判できる。
その事を追求したのが、より新しい功利主義者のジョン・スチュワート・ミル。
生誕1806年。ベンサムの弟子であったジェームスを父に持つ。3歳でギリシャ語、8歳でラテン語を習得、10歳の時にローマ法の歴史書を執筆。20歳でノイローゼになり5年間うつ病と闘う。25歳の時にハリエット・テイラーと出会い結婚。彼女のおかげで立ち直り、功利主義をもうちょっと人間的に改変することに尽力した。
1。個人の権利を守ること
2。快楽に高度・低度の区別をつける
この2点。1861の彼の本”Utilitarianism”にそれをまとめた。
彼はベンサムの功利主義自体を否定はしていない。「お役だち精神で倫理が決まる」所は続行。「お役立ち=効用=プラスポイント」である「快楽」の種類に上下差をつけるのが彼の新しい所。
どうやって?本を読んだ人答えて。
(生徒#1、ジョン)
「両方体験すれば、皆が必ず選ぶ方が高度な快楽」
正解。
ジョン・スチュワート・ミル。「外的圧力なしにほとんど全員が選ぶ方がより望まれる快楽である」
これ、いい決め方だと思う人。
そう思わない人
ここで先生は3つのテレビ番組クリップを見せて、どれがどのくらい人気があるかを見てみます。
最初はシェイクスピア。ハムレットのセリフ。
もう一つはフィア・ファクターと言うリアリティーゲームショー。
最後はシンプソンズ。
ここで生徒達が大喝采。
(サンデル先生)「みんなどれが好きかは聞かなくてもいいですねー。」
「シンプソンズが一番好きな人。」
大盛況。
「シェイクスピアは?」
ちらほら。
「フィア・ファクターは?」
シーン、、、いや、一人だけいて先生びっくり。
今度は「シェイクスピアが"高度な"快楽と思う人」
実際にシェイクスピアが好きだと言った人より増えている。
そしてフィア・ファクターが高度な快楽と挙手した、たった一人の生徒に意見を聞く
(生徒#2、ネート)
「どれが高度でどれが低度なんて他人に言われるものではないと思いますね。」
ジャッジするな、と言うこと。ベンサム的功利主義の精神ですね、と先生。
シンプソンズが高度な快楽と思う人。
もう一度、シェイクスピアが高度な快楽と思う人。
シンプソンズの方が好きだけど、シェイクスピアの方が高度だと思う人の意見を聞く。
(生徒#3)
「個人的にはシンプソンズの方が見ていて楽しいです。シェイクスピアは素晴らしいと、社会や文化が言っているからそれを信じているのだと思う。」
(生徒#4、ジョー)
「今この授業で見てる分にはシンプソンズの方が楽しいと思うけど、これから一生どちらを見て過ごしたいか、と言えばシェイクスピアですね。去年生物学の授業で習ったのですが、ネズミの脳の快楽を発生する部分を刺激する装置を与えると、ネズミは食べるのをやめ、死ぬまでその快楽に溺れるそうです。私は激しい快楽に溺れるネズミより、より深く高度な快楽を選ぶ人間でありたい。それはここにいるほとんどの人が賛成すると思います。」
ジョン・スチュワート・ミルの「多くの人が選ぶ方の快楽が高度な快楽」と言う定義に賛成との意見。
ミルの「高度な快楽・低度な快楽がある」と言う定義自体に反対の意見。
(生徒#5)
「シェイクスピアが素晴らしい、と、教育を受けていないコミュニティーではシンプソンズが多数に選ばれるでしょう。」
(サンデル先生)
「その事はミルも認めています。高度な快楽の理解には文化的な教育が必要だと。しかし、一度教育を受け、その高度な快楽を経験すれば、人は必ず高度な快楽を選ぶ、とミルは言います。」
”満足している豚よりも、(高い快楽を求め)不満足でいる人間でいる方が良い。不満足なソクラテスでいる方が、満足している愚か者でいるよりも良い。豚や愚か者がそっちがいいと言う意見を言うならそれは彼らが自分の見える部分しか知らないからだ。”
快楽に上下は確実にある、との事。でも、その上下の決定事項が有耶無耶な感じがしますね。この煮え切らなさは次の授業で説明されます。
そして授業冒頭で出た功利主義批判のもう一つ、個人の権利や正義についてミルの見解はこちら。
“正義と言うものが功利主義と離れた所にある、と言う主張に反対する。正義は功利主義の下で、効用の最も高く、倫理の最高峰にあるもの。”
“正義とは社会効用の最も大きい倫理的義務であり、従って他のどの義務よりも優先させるべきもの。”
と述べている。
「正義」とか「権利」と言うものは守っていれば必ず社会の「お役立ち」になるものであるがために重要なのだ、と言うあくまでも功利主義の範疇での定義をしている。
そうだろうか?
正義や権利は役立つから尊重されるべきなのだろうか?
(おまけ)
功利主義を提唱したベンサムは1835に85歳で亡くなりました。「お役立ち」を信条とした彼が死後の自分の社会への効用は「剥製になって飾られて、若い思想家達のインスピレーションになる」と言う事だったので、本当に剥製になって残っています。
頭はうまく体につかなかったので、蝋人形ですが、本物の頭は足元にあります。
次回はいよいよ、功利主義を抜けて個人の権利を基本にした論理を見ていきます。まずはリバタリアニズム。