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サンデル先生の「正義」の授業EPS1-1〜殺人の倫理〜

12EPS(各EPS前・後半)の全24回を週2回のペースでアップします。。。きっと。。。

第一回:EPS 1-1(前半)

Moral Side Of Murder(殺人の倫理)


トローリーを運転していて、ブレーキが壊れます。線路の先には五人の作業員がいます。このまま行ったらこの五人が確実に死ぬ、と過程しましょう。線路はY字になっていて、ハンドルを切れば、別の線路へ行けます。そっちには作業員が一人います。。。どうするのが正しい事と思いますか?

生徒の挙手。
ほとんどはハンドルを切り、一人を殺し、五人を救う方に挙手。十数人ほど、そのまま五人を殺す方に挙げる。生徒の意見を聞く。

(生徒#1)
五人殺す代わりに一人殺せるならそっちが良いとしか思えない。

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(生徒#2)
9・11でペンシルベニアでペンタゴンに突っ込む前に飛行機を落とした乗客達も同じ。乗客だけの死で、より多くの死を防げると思った。

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次はそのまま突っ込む、と手を挙げた生徒に話を聞く。


(生徒#3)
少しの犠牲で多くを救うと言うのは、全体主義の考え。それは民族浄化などの思想につながる。なので自分は突っ込む。

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「一人殺して五人救えるなら一人を殺す」と言う原理をどこまで維持できるか試すため、違う設定を提示する。

トローリーのブレーキは壊れていてやっぱり線路の先に五人の作業員。このまま行けば五人は死ぬ所は同じ。貴方は運転手ではなく、線路を跨ぐ歩道橋の上にいて状況を見ています。。。隣に、乗り出してそれを見てる、凄く太った人がいます。ちょっと押せば、その人は落ち、トローリーは止まります。その人は死にます。あなたはその人を落としますか?

生徒の挙手。
ほとんどは落とさない(五人の作業員を殺す)方に挙手。

質問1と質問2で答えを変えた生徒の意見を聞く。1と2で何が違うのか?一人殺して五人救う、と言う倫理観はどうなったのか?


(生徒#4)
橋の上の人はよそ者。質問1の横道の犠牲者は既に線路にいる関係者だから状況が違う。

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線路にいたか橋の上にいたかは関係ありますか?と先生。


(生徒#5)
質問1はトローリーが人を殺す前提で、どっちの道に行くかを選ぶ行為だけど、質問2は自主的に殺人をしている。

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これに反論は?と先生は聞く。


(生徒#6)
でも、人を押そうが、ハンドルを切ろうが、自主的に人を殺している事には変わりないですよね。

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反論の反論は?


(生徒#5)
それでもやっぱり違います。自分が手を染めて殺す事と、トローリーが殺すシチュエーションを作ってしまう事は別だと思う。

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では、その橋に落とし穴の仕掛けがあって、太った人を自ら押さなくても、備え付けのハンドルを回せば簡単に落とせる仕組みならどう?と先生。(笑)

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(生徒#5)
それでもやっぱり違うと思います。橋の上の人を殺すのはダメだ。何故かは分からないけど。

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うまく説明できないけど、とにかくダメだ、との答えに納得した先生。次の設定を提示。

病院。六人の重症患者が運ばれる。貴方は医者。五人は軽傷(と言ってもほっといたら死んでしまう位には負傷してる)、一人は重症(すぐかまわないと死ぬくらい)。重症の一人にかまっていればその間に五人は死んでしまう。五人を救いますか?一人を救いますか?

挙手。ほとんどが五人を救うと答える。

次の設定。

貴方は臓器移植の専門医師。五人の患者を抱えている。一人一人必要な臓器が違う。一人は心臓、一人は肺、、、。と言った具合。臓器の提供者が無く、もうすぐこの五人は死にます。。。さて、隣の部屋に健康診断にきた健康な男がいます。

学生爆笑。

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ウケて嬉しいサンデル先生。

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その男は寝ています。さっと部屋に入り、男から臓器を5つ取り出して五人を救う事ができます。どうしますか?

男から臓器を取り出す人?誰もいない?

一人だけ手を挙げる。

(生徒#6)
「五人の内、最初に死んだ人から臓器を取り出して、四人を救いますね」

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ありゃ!名案!でもそれじゃ講義が台無し(笑)



まとめ

いくつかの倫理的な基本原理が議論の中で上がった。

1つは、行いの倫理をその結果で決めるもの。一人助かるより、五人助かった方が良いに決まっている。Consequentialist moral reasoning(帰結主義的な倫理の理由づけ)。

そして太った人を落とすか、健康な男から臓器を取り出すか、と言うシチュエーションになった時は、どうやら倫理はその行動自体にあり、結果にかかわらず倫理が決まっているようです。Categorical moral reasoning(定言的な倫理の理由づけ)と言います、行動自体に無条件に義務や権利が付随するとの考え方。

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Consequential moral reasoning(帰結主義的な倫理の理由づけ=結果よければ全てよし)の代表例はジェレミー・ベンソン(18世紀、英国の政治哲学者)の功利主義

Categorical moral reasoning (定言的な倫理の理由づけ=結果関係なくとにかくやっていい事と悪いことがあるゼ!)の代表例はイマニュエル・カント(18世紀、ドイツの哲学者)の道徳法則

この授業では他にも色々な哲学者の本を読んでいく。彼らの主張を理解するためだけに読むのではない。

平等と不平等

affirmative action(積極的格差是正措置=入学や雇用に際して人種や性別での人数割り当て制)

表現の自由とヘイトスピーチ

同性結婚

徴兵制

このような私たちの生活に密着した問題がどのような哲学的問題に絡んでいるのかを理解するためにこの講義はある。

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警告です。と先生。

これらの本をそう言う視点で読み込んでいくことにはリスクが伴ないます。個人の成りたちや政治上の立ち位置に関するリスクです。これらの本は貴方が当たり前だと思っていた事に疑問を投げかけて来るからです。

今まで疑問なく受け入れてきた事が、よく分からなくなります。

哲学とは個人を現実から引き離すものです。

新しい情報を提供するのでなく、新しい見方を誘発するものです。一度その体験をしてしまうと元のシンプルな見方には戻れません。倫理哲学や政治哲学がどんな答えを貴方に導き出すかはわかりませんが、ただ一つ分かるのはその物語は貴方自身の物語であると言う事です。

「政治哲学について学べばより良い市民=公共政策をしっかり吟味する事ができ、正否の判断を調整する事ができるより良い社会の一員になれるでしょう。」と言うのはミスリーディング。より良い市民になるかどうかは分からない。ダメな市民になるかもしれない。少なくとも一旦は。

ソクラテスが友達(カリクレス)に「なんでもかんでも哲学の問題にして、架空の話作ってあーだこーだ話してないで、実際に役に立つ事したら?」と言われた話がある。カリクレスもあながち間違っていない。

哲学は個人を現実から引き離すものです。

(哲学に対しての)懐疑心はこのような形で出る。

「大体哲学論議を始める前からの問題は論議を終えても、何も解決していないじゃないか。アリストテレス、ロック、カント、ミルが長年かかって解決していない問題を私たちなんぞに(特にこの1セメスターの講義内で)解決出来る訳が無い。」

結局、個人の理念は強固で変わりようが無く、お互い何を言っても変わる事なく論議は無駄であるのかも知れない。

このような懐疑の声に私はこう答える。

もちろん今まで解決していない問題は山積みである。しかし、これらの問題が何度も何度も論議に上がる事その事自体が、私達がこの論議の何らかの答えを生きている、と言う証明である。だとすれば

「どうせ解決できないんだから、(善悪とか倫理とか)考える意味ないよ」

と、降参するのは解決策ではない。

イマニュエル・カントはこの懐疑の声の問題点についてこう書く。

“Skepticism is a resting place for human reason where it can reflect upon its dogmatic wanderings but it is no dwelling place for permanent settlement…”

(絶対的な正義などないのかもと言う)懐疑心は道理の休憩所。そこでは規則や教義に習って自己を決定をできる。しかしそこは永久に止まれる場所ではない。

この懐疑心の黙認は人間の理性のぶれの解決にはならない。と。

この講義の目的は貴方の理性のぶれを覚醒させ、それがどこへ行くのかを見てみる事です。

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次回へ

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