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「全国の土木工事の元締め」・T建設•T副社長も父親代わり~「{ちゃん}と呼べ」と言われました🤣🤣🤣]

T氏は僕の2まわり上の寅年で、父と同い年でした。

彼は僕のことを、いつも気にかけてくれていました。

週2~3回ぐらいはホテルの会員制スポーツクラブのバーで一緒に飲んでいました。

ある日、Tは「菅ちゃん、今、お父さんいないから大変だね」

「お父さんと俺は同い年で寅だし、菅ちゃんも寅年だから、ここは俺が親代わりになるよ」

「これからは、俺のことを[ちゃん]と呼んだらいいよ」
                       と言われました。

多分、時代劇の「子連れ狼」で大五郎が父親の拝一刀(おがみいっとう)を[ちゃん]と呼んでいたからだと思います。

僕は、理由は聞かずに「[ちゃん]わかりました」と即答しました。

そうは答えたものの、最初は人前で[ちゃん]と呼ぶのは、照れくさかったですが
次第に慣れてしまうものですね。

[ちゃん]とは、よく赤坂、銀座、六本木に行くようになりました。

そんな日々が続いたある日、[ちゃん]は
「菅ちゃん、今日は俺の誕生会があるんだ。お前は息子なんだから、一緒に行こう」
                          言われました。

それから[ちゃん]の車で銀座の[ちゃん]の行きつけのクラブに向かいました。

クラブは貸し切りになっていて、年配の背広をピシッと決めた男性達が座っていました。

クラブのママの誘導で[ちゃん]と僕は一番奥の席に通されました。

[ちゃん]は僕に隣りに座るようにと指示しました。

それからママの音頭で誕生日の乾杯をやり、次に[ちゃん]が挨拶しました。

「今日は自分の為に集まってくれて、ありがとう」

「それともう一つ、俺の息子になった菅ちゃんを紹介するから、これから、俺の息子だと思って付き合ってくれ」
            と挨拶しました。

その後、そこにいた方、全員が、僕の所に来て、名刺交換をしました。

名刺の肩書きは、全員が建設会社の役員クラスで、1部上場や2部上場会社が殆どでした。

名刺を交換する度に、肩書きと会社名を見て、緊張してしまいました。

それからI時間ぐらい歓談してお開きになりました。

[ちゃん]と僕が所属しているスポーツクラブは建設業界の方も数人いらっしゃったので
結構、僕の顔も広くなりました。

建設会社には建設部門と土木部門があるようです。

[ちゃん]は土木部門担当の副社長で、公共インフラである道路、鉄道、空港、港湾、上下水道や河川などの土木構造物の担当でした。

全国的規模で、それらを仕切っているボスのような立場でした。

それからは赤坂の料亭で打ち合わせがある時も、度々、僕を連れて行きました。

一度、赤坂の料亭「口悦」に行った時は、「口悦」のカウンターのバーで[ちゃん]の打ち合わせが終わるのを待っていました。

僕は当然のことながら、打ち合わせに同席したことはありません。

打ち合わせが終わると2人で、よく僕の中学校からの同級生がやっている小さなクラブに行きました。

[ちゃん]は仕事関係の人が来ないそのクラブを気に入って、僕と何回も行きました。

一度、雨の中、六本木の交差点を傘をさしながら渡っている時、[ちゃん]は急に僕の目を見ながら
「菅ちゃん、あんたは不思議な男だな。」

「俺は汚い仕事をする時も多々あるけれど、あんたの屈託のない笑顔を見ていると、
心が洗われるような気がするよ」
                       としみじみとつぶやきました。


その時、僕は[ちゃん]の心の中の一部を垣間見たような気がしました。

こんなことを[ちゃん]が僕に言ったのは、この時の1回だけでした。

スポーツクラブには、よく秘書が[ちゃん]に分厚い封筒を持ってきました。

「菅ちゃん、これパッと使っちゃおうか?」とウインクする時もありました。                  

[ちゃん]がカードで支払ったのを一度も見たことがありません。

銀座のクラブや赤坂の料亭は「ツケ」ですが、それ以外僕と一緒の時は現金払いで
領収書ももらいませんでした。

今、振り返ると[ちゃん]のような人は一部上場企業には、もう殆どいないと思います。

スポーツクラブには、T建設の社長でオリンピックの柔道の銀メダルリストのI氏がいました。

彼は[ちゃん]の会社から下請けの仕事や、その他の仕事を紹介してもらっていました。

ただAは[ちゃん]に余り頭が上がらなくて、[ちゃん]と会食したい時は、よく僕に頼んで来ました。

[ちゃん]にIが会食したいと言ってますと伝えると
「菅ちゃんが一緒ならいいよ」とよく言われました。

それをIに伝えると
「是非、ご一緒してください」と言われました。

3人で食事する時、[ちゃん]はIも僕より一回り上の寅年なので、少し酔うと
「3人揃えば、トラ、トラ、トラ、だ」と言うのが口癖でした。

またB建設のO専務もスポーツクラブのメンバーで、よく[ちゃん]と飲んでいました。

ある日、彼は競馬好きなので、一緒に東京競馬場の馬主席に行ったことがありますが
彼は薄紫色のタキシードに身を包んで颯爽と現れました。

いつもオシャレなOですが、その日は似合い過ぎていて、ダンディでした。

彼とも、たまに銀座に行きましたが、当時は建設業界は粋で派手な方もいらっしゃっいました。

当時はゴルフ全盛期でした。

全国でゴルフ場が造成され、ゴルフ会員権は鰻登りで価格が高騰していました。

ゴルフ場建設ブームに乗って、次々と高額な高級ゴルフ場がオープンしていきました。

会員権売買で大儲けする人が続出しましたが、新規にオープンするゴルフ場の会員権にはカラクリがありました。

ゴルフ場建設が決まると、市場に会員権が出る前に、大縁故といって会員権が非常に安い値段で知り合い、関係者に売られます。

次には価格が上乗せされ、縁故募集として売られます。

その次あたりで第一次募集として市場に出てきます。

大縁故と縁故で手に入れた人は短期間で利益を得られるわけです。

正にあぶく銭です。

このように一般の人が買う前から、儲けられるシステムが存在したのです。

「バブル時代」は一次募集で買っても、値上がりしたので売れば利益がでました。

これも「バブル時代」の錬金術の1つでした。

土地転がしで儲ける人、株で儲ける人、美術品や絵画への投資で儲ける人
「バブル時代」は何にでも投資すれば、儲かると言う風潮が蔓延っていました。

[ちゃん]には一度助けられたことがあります。

スポーツクラブに行くので、車でホテルの駐車場に入る時のことです。

駐車場の入り口の信号が青だったので、地下にくだる入り口を車で、左にハンドルをきって入ると、工事していて、トロッコを引いていた作業員に勢いよく、ぶつかってしまいました。

作業員の方はうずくまり動かないので、車から飛び降り、助けお越しましたが、意識がない状態なので、すぐに救急車を呼びました。

僕は真っ青になってしまいました。

工事現場の人やホテルの駐車場係りも駆けつけて、辺りは騒然なりました。

工事を請け負っていた建設会社が、たまたま[ちゃん]の会社だったので、直ぐに[ちゃん]に連絡しました。

電話に出て、僕の説明を聞いた[ちゃん]は
「菅ちゃん、そこ決してうごくな。 担当者を直ぐ行かせるから」
                         と言ってくれました。

警察も来て、現場検証が始まり、警官は僕の車が完全にホテルの敷地内に入って事故が起きたのか?

それとも車体の半分以上が敷地外に出ているかを、細かく調べていました。

後日、管轄の警察署に出頭することで、その場から帰してもらいました。

スポーツクラブに行くと[ちゃん]が待っていて
「菅ちゃん、管轄の警察署はうちの会社と懇意にしているので、署長に連絡しておいたから心配するな」
                           と言われました。

後でわかったことですが、完全に敷地内に入って事故を起こした場合は道路交通法の適用がされず、私有地内だと免許証には影響せず、刑法の過失傷害罪になることがわかりました。

前科がつくかもしれないと言われ、当惑してしまいました。

工事業社が[ちゃん]の会社でホテルもスポーツクラブの親会社なので、まず交通事故の被害者との示談を優先的に解決しなさいと言われ、保険会社とも相談して被害者の入院先の病院で被害者には謝罪しに何回か伺いました。

ホテル側も侵入路の信号が青であったことや入り口に監視員を配置していなかった瑕疵があったので、大ごとに成らずに済みました。

[ちゃん]が会社の根回しや管轄警察署の署長にも根回ししてくれたのが幸いでした。

事故当日は夕食に誘ってくれて[ちゃん]はいろいろ父親のように心配してくれました。

本当に父親代わりなんだとしみじみ思いました。

[ちゃん]の思い出は、沢山ありますが、2つ[ちゃん]の性格を表わすエピソードがあります。

[ちゃん]はわがままなところがあって、よく日曜日や祝日の午前中に電話がかかってきました。

[ちゃん]はスポーツクラブのホテル以外に、もう一軒行きつけのホテルがあり
休みの日は、そこで昼食をとるのが習慣でした。

こちらの都合は聞かずに「直ぐランチに来い」と言ってきます。

休みの日、ゆっくり寝ていようと思っても電話で起こされ、結局ランチに参上する事になります。

また[ちゃん]はニンニクがダメで、匂いを嗅いでもお店を出てしまいます。

一度、前の日にニンニクを沢山食べて、次の日にお会いした時、すぐ
「ニンニク食べたな。帰りなさい」と言われたこともありました。

[ちゃん]は糖尿病を患っていて、医師からはお酒も食事も制限されていましたが、
いつも「死ぬ時は死ぬんだから」と言って、最後まで自分のやりたいように生きていきました。

[ちゃん]が亡くなった時は大々的に社葬が行われました。

社葬に出席しお焼香をあげて、飾られた[ちゃん]の大きな写真を見た時
「菅ちゃん、また一緒に飲みに行こうな」と語りかけているような気がしました。

[ちゃん]も激動の時代を生き抜いた「バブル時代」の象徴とも言える方でした。

もう1つ悲報がありました。

「トラ、トラ、トラ」と[ちゃん]が言っていた3人の1人I氏が2001年9月に自刃自殺をした事件です。

そのニュースを聴いた時、自分の耳を疑いました。

事情は全く報道されなかったと思います。

僕が「トラ、トラ、トラ」の最後の生き残りになってしまいました。

それから32年以上たって、僕も73歳になってしまいました。

「バブル時代」の始まりから終焉そしてその後の「バブル時代」の処理に明け暮れた時代また給料も上がらず、日本経済が低迷し続けた時代それら全てを経験してきた自分に出来ることは、今の世代にこの経験を伝えることだと思います。

ただの歳とった老人でも、できることにチャレンジすることが[ちゃん]やA氏に対する供養になるのかもしれません。



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