「運命」は「不確実」か
山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」(岩波新書)も読みかけている。忘れてしまったくらい以前に買ってそのままにしていたのを、温泉施設にでも行ったときの読み物にしようとしたところちゃんと座りなおして読む必要を感じて、読みかけ、というわけである。どれだけ掘り下げられるのか、またはそのまま放っておかれるのか、できれば何らかのまとめがつけられるようになったらいいなとは思っている。
だから今は話すことは無いはずなんだけれど、私の関心の中心から外れているだろうと思う、"variation" という言葉に関連するところで少し座りの悪い感じがすることについて覚えを書いておこうと思う。本の81ページ8行目「人間の歴史の本源的な不確実性を示す運命性」とあるところ。同じ表現「歴史の根源的な不確実性、運命性」は98ページ5行目にも出てきます。前のほうはカルヴィニズムが宗教的意図とはかけ離れたものを生み出したということで、後のほうのはその一環として古プロテスタンティズムが官僚制の「鉄の檻」を生み出したということを指しています。
気にしているのは、それを「不確実性」と呼ぶのは適切なの?ひょっとしてWeberがその言葉を使っているの?という点である。文脈を見れば「不確実性」が表しているのは「生じる前には予期できなかった」事態で、「運命性」は「生じた事態は一定の現象に収斂している、別の選択肢はない」ということになるんじゃないだろうか。まさにその二つは「予期せざる結果」「意図せざる結果」(81ページ)の内容ではあるけれども、その一方を「不確実性」と呼ぶか。
自分が使う場面を考えてみると、不確実という言葉は、生じる事態の候補はいくつか挙げられるけれどもどれが生じるか分からない、ということになるように思われる。一方で「予期せざる・意図せざる結果」はその事態が想定した事項の外側にあったということだろう。これに不確実性という言葉をあてるのはあまりよろしくなかったのではないだろうか。
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