【インタビュー】映画プロデューサー・福間美由紀さんに聞く①
みなさん、お久しぶりです!
東京国際映画祭学生応援団です🎞️
今回は、映画プロデューサー・福間美由紀さんへのインタビュー前編をお届けします!
福間さんは、是枝裕和監督が率いる映像制作者集団「分福」に所属し、『真実』(日仏合作)、『ベイビー・ブローカー』(韓国)のプロデュースを行うなど、国際的にご活躍されている映画プロデューサーです📢
前編では、福間さんの学生時代から、映画を仕事にするまでについてお聞きしていきます。ぜひ、最後までお楽しみください💁♂️
«Profile»
«Interview»
ーー始めに、福間さんの直近の活動について教えてください。
直近は、今年公開になりました韓国映画の『ベイビー・ブローカー』を、世界各国の映画祭や劇場で公開することに引き続き関わっています。あとは、来年以降撮影していきたい映画やドラマの企画開発をいくつか進めています。作品づくり以外だと、業界課題についてのプロデューサー勉強会に参加したり、東京国際映画祭の交流ラウンジの企画をお手伝いをしたりですね。
≫福間さんの学生時代
ーー福間さんの学生時代について教えてください。
島根県出身で、松江と京都で幼少期から高校まで過ごしました。そして、大学入学を機に上京しました。
大学時代の関心の始まりは、必ずしも映画じゃありませんでした。法学部に合格していたのですが、入学時に自分の専攻や専門を 1 つに絞ることにどこか抵抗があって、まだ未熟な自分には早いような気がしたんですね。
そして、文系、理系問わず、様々なことを何でも学んでいいところだった教養学部を選びました。 そこで分野の垣根を越えて幅広く、その時々に自分が好奇心をそそられるものや、深く知りたいと思ったものを学んでいきました。
例えば、ホーキンス博士のブラックホールの理論であったり、アルツハイマーの研究から記憶と忘却のメカニズムだったり、動物から人間へ心や遺伝子がどう進化していったのかを考える進化心理学だとか、自分が人間や世界について知らなかった扉が開かれるようなものを面白いと感じていました。
大学時代は、何かになるために逆算して学ぶことはあまり考えていなくて、自分の好奇心の針が振れたものに惹かれて向き合っていました。
【大学生活後半、美術を専攻】
いよいよ大学の後半になって、論文を書くためにも、自分の専攻を絞らなければならなくなった時に、自分にとって 1 番新鮮で正解がなく、もっと深く知りたいというのが美術だったので、美術を専攻しました。
美術史や比較文化と共に、アートマネージメントや、アートビジネスといったものもそこで学びました。その中で、1 つの作品を漠然と「見る」のではなく「読む」という訓練を沢山しましたね。そうすると、作品の内に描かれた社会や人間の様相とか、作品の外にある時代背景や流通の仕組み、さらに作り手の人生が浮かび上がって来る、そしてそれらの複雑な繋がりが見えて来るんです。ものを見る、目の解像度が少しは上がったかなと思います。
【映画に活きた、大学での学び】
映画の仕事を 15 年以上やってみて思うのは、大学時代の勉強や経験が、全部映画に活きているということです。後になってから気づいたことですけどね。
若い時に、将来映画の仕事をしたいと思ったら、すぐに映画を専門的に学ぶというのも一つの道ですが、それ以外のことでも同じくらい、どれだけ社会や人間や世界について強い関心や想像力を持って具体的に掘り下げる経験をするか、目を鍛えるかが、大事になってくるのではないかと個人的には思います。
それが、映画を作るようになった時に、映像や脚本を読む力や、作り手の意図や作品を解釈すること、プロデューサーの仕事であれば、作品の内側と同時に外側にある創作環境やビジネス面を考えるというところにまで、色々と繋がってくるのだと、今になってみれば思いますね。
≫映画を仕事に
ーー映画の仕事はいつから始められたのですか。
映画の仕事を始めたのは、大学院を終えて映像メディアの仕事をしたいと考えて、映像制作会社に入ったことがきっかけです。このときの、最終面接で初めて是枝さんにお会いしました。
私は制作職ではなく総合職で入って、上司のプロデューサーと一緒に製作委員会に出て、プロデュースワークのイロハを見よう見まねで学んでいました。一方で、是枝監督の机もすぐそばにあって、たくさんの作り手達が企画談義をしたり、脚本を書いている創作の現場にいつも接しながら仕事をしていました。その環境はありがたかったですね。
また、同時に海外担当でもあったので、入社して間もなくから監督と一緒に各国を回っていました。日本映画をどう海外に発信していくのか、そのためにどんなネットワーキングが必要か、世界では日本映画がどう評価されているのか、今映画をめぐる世界地図がどんな状況なのかといったことを、海外の映画祭や劇場で出会う人々や観客の声を聞きながら肌で知って、日本での次の仕事に還元しようとしていました。
【国際共同製作へのめざめ】
ーー福間さんは、海外にすごく視野を広げていらっしゃる方だと思うのですが、そのきっかけはどこにあるのでしょうか。
入社してすぐに映画制作、映画事業の中で海外展開を担当していたというのは、 確かに大きかったと思います。
今話しながら思い出したことがあります。入社して 2、3 年目ぐらいに初めてパリに単身で出張したことがあったんですね。それが、「Paris Project」という国際共同製作のワークショップ兼企画マーケットだったんです。(※現在の Les Arcs Coproduction Village の前身にあたる)
各国から国際共同製作の企画を持ったプロデューサーたちが集まって、共同製作を実現するためにどんな知見やネットワークが必要なのかということを、セールスエージェントや配給、プロダクションや CNC など色々な組織や立場のプロフェッショナルから、みっちりレクチャーを受けるんですね。それと同時に自分たちが持っている企画をそれぞれがプレゼンするんです。これが非常に濃密で刺激的な 3 日間でした。
日本にいると、「海外と映画を作る」 とか「国際共同製作の企画を」みたいな話が、少なくとも当時の私の周りでは、ほとんどありませんでした。 でも、Paris Project に参加したことで、開眼したというか、いつか自分も国際共同製作のプロジェクトを実現したいという気持ちが芽生えていったと思います。
それで、すぐ何か実行できたかと言われたら、日々忙しくて、ひたすら色々な経験を積むことに必死でした。けれど、やっぱりそこで自分にそういう気持ちの芽生えがあって、やがて様々なご縁と偶然が重なって、フランスとの合作の『真実』であったり、韓国映画の『ベイビー・ブローカー』まで繋がっていったなと思います。
≫福間さんにとって映画とは
ーー学生時代から映画は好きだったのでしょうか。
映画はもちろん好きでした。大学近くのシネマライズやユーロスペースに友達と観に行ったり、日仏学院の会員になってフランス映画の特集に通ったりしていました。学生時代の映画に関することで思い出されるのは、スイスのジュネーブに留学していたときのことです。
【スイス・ジュネーブで観た、思い出の映画】
当時 、「アジア人・女子・留学生」である私がジュネーヴで 1 人でまともに家を借りることは難しくて、初対面の人とルームシェアをすることになったんですが、その人がジュネーブの国連本部に勤めている 30 代のドイツ人の女性だったんですね。自分と国も年齢も当然違うし、生活時間やライフスタイルもあまりに違いすぎて、一緒に暮らしているのに最初は接点がなかったんです。
けれど、ある日、夜一緒に映画を観ることになったんですね。2 人で近所の映画館で観たのがスピルバーグの『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(02)でした。
やっぱり面白い映画を観た後はどちらからともなく盛り上がりますよね。もう夜な夜なワインを飲みながら、ディカプリオとトム・ハンクスについて語り明かしました(笑)。映画について話しながら、お互いの生活や価値観を伝え合っていた気もします。そこからものすごく心の距離が縮まって、いい関係を築くことができました。
今思えば、その時々の現実と向き合ったり、何かが浄化されたり、周りの世界と自分を繋ぎ止めてくれたという意味でも、映画に救われたなって思う体験は、大学の頃から今に至るまで、本当に沢山ありますね。
ーー福間さんにとって映画とはどのようなものですか。
私は、「年間 300 本、400 本見ています」とか、「大学の時から 8 ミリ回して撮っていました」とか、そうした生粋の映画ネイティブでは全然ないんです。
ただ、やっぱり自分にとって映画は、人間や世界について深く考えていくことそのもの。複雑な美しさに触れて高揚するもの。人と自分を繋いでくれるもの。人と人との関係を深めてくれるもの、でしょうか。ものすごく大切な存在です。
以上で、前編は終了です。
後編では、福間さんの考える映画プロデューサー像について詳しくお聞きしています!ぜひ、こちらもお楽しみください💁♂️
取材日:10月30日
取材・執筆:相馬、舩橋