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【文化庁映画週間シンポジウム➀】~私と90年代日本映画のディスタンス~
はじめに
先日、【第18回文化庁映画週間】のシンポジウム「1990年代日本映画から現代への流れ」に学生応援団も参加させていただきました!
映画文化の最新動向を紹介する本企画。今年は外国映画の人気で低迷していた日本映画が息を吹き返し、2000年代の邦画ブームに繋がる萌芽期ともいえる「1990年代日本映画」に焦点を当て、現在ご活躍中の監督、映画ジャーナリストの方々に90年代日本映画の魅力や、現在の日本映画への流れについてご見解をお話いただきました。
第1部では映画監督の野原位さん、映画評論家のジャン=ミシェル・フロドンさん、映画ジャーナリストの金原由佳さんがご登壇されました!
本日の記事では、「私と90年代日本映画のディスタンス」というトークテーマで語られた第一部の内容を要約する形でご紹介したいと思います。
○90年代の日本映画界の動向
90年代の日本映画界は、あまり好ましい状況ではなかったそうです。90年代初頭、1989年にソニーがコロンビア・ピクチャーズを買収したり、パナソニック(当時:松下電器産業)が米ユニバーサル(当時:MCA)を買収したりと一見良好なように見えます。しかし、91年の映画館年間入場者数は戦後最低の1億3833万人を記録していたり、日活が93年に倒産したりと、厳しい状況となっていました。
○90年代を代表する監督
90年代にさしかかかる頃、日本映画への世界の関心は小さくなっていました。そんな中、90年代に現れた若い監督のおかげで、再び日本映画に世界の関心を集めることができたそうです。
映画評論家のフロドンさんは、90年代を代表する監督として、黒沢清、北野武、青山真治、岩井俊二、大島渚、今村昌平、河瀨直美、是枝裕和、宮崎駿、押井守の名前を挙げていました。
その中でも特に90年代の監督の中で一際大きな存在感があったのは、黒沢清監督だったそうです。環境問題に向き合った『カリスマ』(99)などの、非現実的な要素を持ちつつも、同時代の問題を深く取り扱う作品の数々は、世界の関心を集めることとなりました。
また、黒沢監督は『勝手にしやがれ!!』シリーズなどのVシネマを撮っていたことも重要だといいます。低予算でもいい映画は作れることを証明しました。
北野武監督は、欧米の関心を引き付けるような新しい映画の形を提案することに成功したそうです。実際、97年ベネチア国際映画祭で『HANA-BI』(97)が金獅子賞(グランプリ)に選ばれたことからも世界的に評価されていたことが分かります。また、『ソナチネ』(93)などに見られる唐突な暴力性というのが一つの特徴であり、この特徴は黒沢清監督の『CURE』(97)にも見られたりと、90年代の一つの特徴と言えるそうです。
岩井俊二監督は、TV業界から映画の世界に参入したことで有名です。1993年にテレビドラマ「ifもしも/打ち上げ花火・下から見るか?横から見るか?」を演出し、日本映画監督協会新人賞を受賞しました。本来映画監督に贈られる賞が、まだ映画を一本も撮ったことがない岩井監督に贈られたため、当時のことを知る、映画ジャーナリストの金原さんは、とても驚き、印象に残っていると仰っていました。
また、金原さんは90年代の日本映画を象徴する出来事として、97年の第50回カンヌ国際映画祭を挙げていました。この年のカンヌでは、今村昌平監督の『うなぎ』(97)が最高賞パルム・ドールに、さらに河瀨直美監督の『萌の朱雀』(97)が新人監督に贈られるカメラ・ドールを受賞しました。世界の関心が日本映画に向いていたことが分かります。
○日本と世界を仲介する者の必要性
フロドンさんは、日本映画を世界に紹介し、世界の映画を日本に紹介する、日本と世界を仲介する者の必要性を語っていました。そしてフロドンさんは、柴田駿さんと川喜多和子さんを紹介しました。二人は夫婦で1968年にフランス映画社を設立し、数多くの外国の作品を日本にもたらし、さらに優れた日本映画を海外で上映することにも貢献しました。しかし、1993年に川喜多和子さんは亡くなっていまいます。川喜多和子さんの死は、日本映画界にとって大きな損失だったといいます。
日本映画への世界の関心が高まるためには、監督も大事だが、仲介者がとても重要であり、その仲介者の存在は、日本にとっても、そして世界にとっても意味があるとフロドンさんは仰っていました。
○黒沢清監督と野原位監督
野原位監督は、東京藝術大学大学院映像研究科監督領域を修了されており、ここで黒沢清監督から映画を学んでいました。
大学院では、黒沢監督が学生をスタッフにして16㎜で映画を撮るという授業があり、そこで野原監督は初めてプロのやり方を目の当たりにしたそうです。黒沢監督が、常に的確なカメラポジションを見つけ出すことや、撮影しているときにすでに頭の中で編集が行われていることに感心したそうです。
野原監督は、黒沢監督から「学生でも世界と同じ土俵に立つ者であると自覚することの重要性」を学んだと仰っていました。そして、ここで学んだことを次の世代に繋いでいかなくてはならないという責任についても仰っていました。
○おわりに
90年代に僕はまだ生まれていなかったため、今回のシンポジウムで実際に当時を知っている方々の話を聞けたことはとても勉強になりました。今回のシンポジウムで特に印象に残ったのは、フロドンさんが仰っていた「仲介者の必要性」についての話です。どんなにいい作品があっても、それを世界に伝える存在がいないと、その作品は日本のみで終わってしまい、結果的には日本映画の成長にも、世界の映画の成長にもつながらないのだなと分かりました。
〈執筆者:たくみ〉
〈登壇者〉
ジャン=ミシェル・フロドン
Jean Michel Frodon
映画評論家/映画史家/パリ政治学院准教授/セントアンドリュース大学名誉教授
1953年パリ生まれ。ル・ポワン誌、ル・モンド紙を経て、2003年から2009年までカイエ・デュ・シネマで編集長を務める。世界のインディペンデント映画に精通し、90年代に東京国際映画祭に足しげく通い『CURE』(97 黒沢清)をル・モンド紙で紹介した。ホウ・シャオシェン、エドワード・ヤン、ウディ・アレン、アッバス・キアロスタミなどの書籍を多数手がけ、日本では「映画と国民国家」(岩波書店・野崎歓訳)が出版されている。
野原位 Tadashi Nohara
監督
1983年栃木県生まれ、2009年東京藝術大学大学院映像研究科監督領域を修了。修了作品は『Elephant Love』(09)。共同脚本・プロデューサーの『ハッピーアワー』(15/濱口竜介監督)はロカルノ国際映画祭脚本スペシャルメンションおよびアジア太平洋映画脚本賞を受賞。また脚本として黒沢清監督の『スパイの妻』(20)に濱口監督とともに参加。劇場デビュー作となる『三度目の、正直』が第34回東京国際映画祭コンペティション部門に出品される。
金原由佳 Yuka kimbara
映画ジャーナリスト
1965年兵庫県生まれ。関西学院大学経済学部卒業。現在、「キネマ旬報」ほかの映画誌、朝日新聞、「母の友」(福音館書店)などで映画評を執筆。著書に「ブロークン・ガール 美しくこわすガールたち」(フィルムアート社)、共著に「伝説の映画美術監督たち×種田陽平」(スペースシャワーネットワーク)。近著に相米慎二没後20年を迎え、刊行された「相米慎二という未来」(東京ニュース通信社)、企画・構成で参加した「相米慎二 最低な日々」(A People)がある。
・文化庁映画週間について(引用)
文化庁では、日本映画の振興及び発展のために、様々な観点から取組を行っています。
その一環として、この度18回目となる「文化庁映画週間」を東京国際映画祭期間中に開催します。
文化庁映画週間では、優れた文化記録映画や永年にわたり日本映画を支えてこられた方々を顕彰するとともに、記念上映会やシンポジウムなどを実施し、様々な立場の方々が映画を通じて集う場を提供します。
https://bunka-cho-filmweek.jp/