心も体も、わたしではない
わたしとは何なのか?
膨大なストーリーはこの問いに
「わたしとは、観察のおこる位置」
と答えている。
位置。
わたしとは、位置なんだ。
質量もなく体積もない、実体も実態もない「位置」が、わたしの正体だった。
そんなわたしは「身体」というロボットに、パイロットとして乗り込でいるという認識を持ってみてほしい。
そして、わたしたちは靈(たましい)なので、実態はなく、声も持たないし、思考もなくて、感じることもなくて、あるのは、かなり強引なたとえだけれど、意識と意図だけだとイメージしてみてほしい。
その意図は言葉でもイメージでもなく、言葉やイメージ、発想の元になるものだと認識してほしい。
そんなわたしが、身体というロボットに乗り込むと、わたし意識というものが全身に行き渡り、心が起動して、生命活動も始まる。
意識と心は、似ているけれど別物として理解してほしい。
ぼくは心を「思考・感情・体感」をひとくくりにして扱っている。
僕は現在、そういう前提で暮らしながら、日々、検証をしていますが、いまのところズレは見つけてないです。
同時に忘れないでほしいのだけれど、心がなければ、靈だけでこの身体を生きてはいけないです。僕たちの身体はとてもたくさんのタスクを、この身体に暮らしている沢山の微生物と協調、連動してこなすことで、生命活動を維持している。それを一手に引き受けているのが「心」でもある。
もちろん、そのすべてを創造しているのは靈であるわたしだし、とんでもないタスクをこなしてる感なく暮らせている事実は、奇跡だといいたくもなる。
もちろん、身体と心だけでも生存を維持することはできず、三位一体となっているのだけれど、とにかく、わたしがすべての起こりであることは、揺るがないということだ。
さて、ここでとっても重要なところに入っていこうと思う。
それは「情」というものをどう扱うのかというテーマです。
人情、感情、愛情、純情、同情・・・
心をコントロールすると、ロボットみたいになるのかというと全く違う。
まったくちがうのです。
0歳児が、ひとつの素晴らしいお手本だと思って下さい。
0歳児のあり方には、靈として生きている人の姿として、参考になることが山のようにあります。ただし、そう理解するには、わたしたちには邪魔な価値観や判断基準がありすぎると思って下さい。
とにかく、どうやら0歳児には、靈として生きる人の姿が現れているということです。
いかがでしょうか?
ロボットみたいでしょうか?
そうは、受け止めにくいのではないかと思います。
こういうのはどうでしょう?
心あるように見えますか?
赤ちゃんと、赤ちゃんのマネをしたり、赤ちゃん返りした大人とは、違う雰囲気がどうしても出てしまいます。
わたしたちは心の状態の違いを、敏感に感じ取る機能があるので、赤ちゃんに邪気がない事を感じとれます。
邪気のない「情」はなくなりませんし、赤ちゃんと大人とでは「情」の現れ方は大きく変化するのです。
心の暴走が整っても、けっしてロボットみたいにはなりません。
そして、これまでの人類が、どれだけ心に振り回されていて、どれだけ余計なことを地球でやらかしてしまってきたのか、よく分かるようになります。
もちろん罪悪感なしにです。
Ryosuke
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