どこへ行こうというのか
靈(たましい)を生きることと
社会的立場を得ることは
まったく関係ないし
あこがれる誰かのように
なれるわけでもないし
誰かに認められるためでもないし
夢や希望を叶えることでもないし
よい評価を得るためでもないし
自分の素晴らしさをひけらかせるわけでもないし
神のご加護を得れるわけでもない
ただ
今の自己理解の枠組みを変えて
とりあえずはこれまでの暮らしのままに
安心して
この地球にただのわたしとしてあり
これまでと同じように
この世界にあるものを使って
あかるく
あたたかく
おだやかに
思う存分
創造していく
そういうようなことなのです
だから
靈を生きたら
ビジネスが成功するとか
お金持ちになれるとか
権力が手に入るとか
夢や望みが叶いますとか
思いのままに引き寄せられるとか
恋人ができますとか
災難を避けられますとか
嫌われなくなったり
怒られなくなったりするとか
そういうことじゃないです
靈を生きるって
自己啓発とかじゃなくて
自己認識の大前提を変えてみて
実際にそれで生きてみると
色々と問題は抱えているけれど
とはいえ
生きてここにいることに安心してる自分に出会える
だけれどそれで
世界の見え方はまるっきり変わってしまう
それは実は
よりよい自己を目指しているのではなくて
覚醒しましょうと言ってるのでもなくて
自分というものを捉えなおしてみたら
状況は全く何も変わってないけれど
世界の受け止め方がかわり
選択と行動がかわる
すると
気が付いたら
これまでの自分ではない
新しい自分になってしまってるけれど
きっとその時には
そんなことはもうどうでもよくなってしまうと思う
しいていうなれば
社会性と道徳性と倫理観を持って
安心しきった3歳児になるのと似ているかもしれない
もちろん
そもそも3歳児を
現在の
心に翻弄された社会性や道徳性や倫理観で推し量っても
ここで語っている事は何も見えないけれど
靈を生きていれば
2,3歳児のあり方だけれど
わざわざ
そそうはしない
そして
何をそそうとするかは
大きく変わると思う
分かってほしいがなくなり
愛されたいもなくなり
あらゆる承認要求と暴力性が消えて
他者と比較しての有能性や優位性に意味がなくなり
誰も馬鹿にせず
誰からも馬鹿にされず
馬鹿にされたからといって
凹むわけでも
抗うわけでもない
それぞれが
ただ
それぞれであることが
それぞれの満足の中で
ありありと表現されていく
そういう
目的自体はあまり魅力がないかもしれませんが
その結果おとずれる未来は
大きく変わるというものです
Ryosuke