靈として心を整える
心はわたしではない。
わたしの意図をこの地球で具現化するためにと乗り込んだ身体に備わった機能だった。
だから、その機能を手足のように上手に使いこなしていくことが大切なのだけれど、僕たちは、そもそもその発想がないまま、心の状態に影響のある様々な情報を、受け取ることになっている。
するとどうなるかというと、なぜか心を整えようとすることに、強烈な抵抗がでる。
一番分かりやすい抵抗は、心の面倒をみるために出来上がった価値基準や判断基準で、心の整えをするアイデアを評価、判断、理解しようとすることだ。
心の整えをするアイデアは、心の面倒を見るために出来上がった価値基準や判断基準を使わないで、あらたな価値基準や判断基準に置き換えようとするものだから、古い価値基準を使って理解しようとすると、かなりの確率で、違和感を感じるようになっている。
だけれど、その違和感こそが、心の暴走を許してきた感覚だと、気づくことがなによりも重要なんです。
その違和感に気づいた時に
「どうやらわたしは心の暴走に振り回されている」
と言葉にしてみること、そして
「わたしは心の暴走に、決してつきあわない」
と言葉に出すことで、心を観察するポジションを獲得することにつながっていく。
よく「心のままに」という表現に出会ってきたけれど、場合によってはそれほど危なっかしいあり方はないように今は思う。
わたしたちの人生のあり方を考える時、心の機能は、本当に大きな影響があるのだけれど、それは「心は手足のようにできるだけ自由自在にコントロールできた方が、よりよい人生を実現できる」と気づくことから、その大きな影響力を、自己実現やその先の自己超越の達成に活かせることにつながっていくけれど、それは、個人の存在目的を大きく変えてしまうことにもなる。
ところが、それはとんでもない大きな変化でもあり、そもそも、心は猛烈に抵抗する。
だから、まずはよりよく知るということが必要になってくる。
Ryosuke
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