まなざしとしての釣具
私はふだん、特に好んでルアーフィッシング Lure fishingをたしなんでいる。西欧の水域で生まれ、この列島で独自に深化した疑似餌釣りの主役は、やはりルアーそのものだ。木、プラスチック、金属、樹脂、布などさまざまな素材によって整形され、塗装やコーティングを経て完成する釣具(釣りの道具)。それは企業やプロフェッショナルな職人たちが作り出す商品でもあり、私も多くの場合、市販品を使うことが多い。しかし数年来、私はこのルアーを自作するようになった。釣り人の中には好きが昂じて自作する傾向もあり、多くのプロセスが共有されている。ささいなきっかけだが、始めてみるとことの他面白く、拙い手工だがとりあえず自分が使う分には問題のないものを作ることができるようになった。初めて自作したルアーで釣り上げた魚はとても感慨深いものだった。そしてこの過程で、私はまた釣りの世界の奥行きを知ることになった。そのことについて、少し考えてみたい。
以前述べたように、水中の魚は時間と空間との交点として存在する。時がみちなければ、あるいはふさわしい場でなければ、魚は現前しない。彼らを探す、そしてその鼻先へ針を届ける役目をこの釣具は担っている。海や川、湖沼に水路。様々な場で、さまざまな時に合わせて必要とされるルアーは異なっている。さらに言えば、海であれば砂浜、地磯、沖合、川の大小、流れの緩慢、深浅や水色。朝なのか夜なのか、あるいは夕暮れか、など時間と空間に従って細分化していると言ってよい。誰でも大型釣具店に行けば、めまいがする程のルアーを見る事ができるだろう。
このような細分化がなぜ起こるのか。素人目には全く同じ造形に見えるルアーが、かくも市場にあふれているのはなぜなのか。私見になるが、それはルアーの作り手(ルアービルダー lure builderと呼ばれる事も多い)が思い描く時間と空間の交点が、そのビルダーの数だけ存在するからにほかならない。澄んだ水色の沖磯で使用する釣具。濁った湖の浅場で使用する釣具。瀬をはやみ、岩にせかるる滝川で使用する釣具。彼の思い描く水辺と、彼が思い描く魚の数だけ、ルアーという道具の造形のバリエーションは異なる。
このように考えたとき、私は自らが作ったトップウォーター・ルアーを手元に引き寄せる。最初の造形は確かに市販の名作と呼ばれるものを模倣したものだったが、制作を繰り返すうちに随分とその造形が変状してきた。自らが思い描く水辺と魚、すなわち時間と空間とに、造形が追いついてきたように思う。これは次のことを意味している。ルアーの造形もまた、あの交点の表現なのだ。ある特定の場所とそこにおけるある特定の時間、その交点に現れる魚を目指して一個のルアーは造形される。もちろん現実にはいくつかの交点を「束ねて」造形されることが多いだろう。あの交点とこの交点のどちらでも使えるほうが道具としては合理的だ。一つの交点を追うこと、あるいは複数の交点を束ねること。それらを現実的に造形することがビルダーとしての表現力であり、面白さなのだろう。だからよいルアーとは、ある特定の風土を表現している、と言える。大手企業が手掛けた汎用性の高いルアーでさえ、元を正せば必ずいずこかの交点に行き当たる。私は、新商品として販売されるルアーを見るとき、このことに注意している。この新作はどの風土の表現なのだろう。それを考えるだけでも、釣具の世界の奥行きを知ることができる。
もちろんこの造形は似ている場合もある。さまざまなバリエーションが「収斂」し、最大公約数的に造形が決定されることもあるのだ。釣り人から長く名作とよばれるルアーがそれにあたる。また収斂と対になるように、造形の「拡散」も起こり得る。例えば緩やかな湖沼を思い描いて作られたルアーが、釣り人の想像力によって荒々しい地磯で使用されるようになることもある。するとビルダーは収斂し決定された造形から、より適切な形を求めてあらたな拡散を目指すようになる。現代に至るまで、この拡散と収斂が繰り返し行われてきたために、大きな変化は起こりづらくなっては来ている。しかし可能性がなくなったわけではない。ビルダーと釣り人は、その思い描く水辺と、その意図に対する反逆とを繰り返しながら釣具を作り続けている。
そしてルアー制作を通して、私は「道具」というものの本質的な役割のことを考えるに至った。それは私たちが世界を見るための「まなざし」のようなものなのではないだろうか。竿とルアーを持って渚に立つとき、私はさまざまな情報を受取る事ができる。潮の流れ、海水温、風向き、海中の魚の有無。そういった一切の情報を、これらの道具なしに感じ取ることは難しい。このまなざしで見やれば、何も持たずに渚で立つときと異なった仕方で、海に対する理解を深めることができる。これは釣具に限った話ではない。網や船、サーフボードを持てば、また違った情報が飛び込んでくる。海ではなく山でもいい。鉈をもって山に入れば、何も持たないときよりずっと山のことがわかるだろう。鍬もそうかもしれないし、ジョウロだってそうかもしれない。興味深いのは、それぞれの道具を使って見る世界は、その道具以外で見ることができない、ということだ。網には網の世界、釣りには釣りの世界。ジョウロにはジョウロを使うことでしか見えない世界がある。「まなざし」は人間が自然にふれ、そこを「環境」として認識し直すときに、その性格を決定づける役割をも持っていると言えないだろうか。一個のルアーは、ビルダーの思い描く時間と空間の交点の表現として生まれる。そして同時にルアーは「世界を私がどう見るのか」ということの表現でもありうるのだ。
そして、もしかしたらそのずっと先には「無手」の境地もあるのかもしれない。ルアーを持たずとも、鉈を持たずとも、自らの内にそれらを携えることができれば、世界を見るまなざしもまた、自らの内に獲得できるのかもしれない。剣の達人が剣を持たずとも相手を圧倒する、という筋の時代劇をどこかで見たような気がする。釣りに例えるのならば、それは釣具を持たずとも水辺のことをよく見通せる境地のことだろうか。もちろん私とってその境地にはあまりに遠い。しかし。バルサや桐を削り、セルロースセメントの異臭に苛まれながら私はふと思う。いつかそういう境地にふれる日もあるのかもしれない。エアブラシにつまった塗料を拭き取りながら、そんな冗談のようなことを考えていた。新しいルアーがもうすぐ完成する。今度はこいつを持って、あの季節のあの場所の魚に会いに行こう。あるいは全然異なる時間と場所で、まったく異なる魚に会えるかもしれない。机で作業をしながら、私はまだ見ぬ魚との邂逅を楽しみにしている。そんな釣考(アームチェア・フィッシング)が今日も続いている。