わたしの子宮は胎児を殺す。
一 風薫る
セックスレス、だった。
淡いピンクのインテリアで統一された待合室。女性スタッフのみが在籍する不妊治療専門クリニックのドアを夫婦揃って叩いたとき、結婚6年目にして、出会ってから重ねてきた年月は14年にも及んでいた。互いに激しく求め合う情熱はもはやなく、ふたりの間にたゆたう温かい何かに、となりあって包まれるように安穏と過ごしていた。
「病気などの特別な事情がないにも関わらず、1ヶ月以上性交渉のないカップル」
というその定義通りに解釈するならば、当てはまってはいない。しかし、子どもがほしいと思っていなければ、平気で今後数十年肌を合わせることなく死んでいく、そんな気がしていた。だから、セックスレス。
「20代なら、普通にしていれば3ヶ月もあれば妊娠しますね。30代でも、おふたりはまだ若いから、何もなければそんなに時間はかからないと思います」
思ったより短い待ち時間の後に通された診察室。細い金ぶちの眼鏡をかけた痩せぎすの女医は、受付で書いた問診票を見ながら関西のアクセントが残る言葉でわたしたちにそう言った。裏を返せば、「3ヶ月でできないのならば、何かある」ということだ。
先生、排卵検査薬を海外から取り寄せ、判定ラインがピンク色に変わったタイミングで数日だけ交わるという営みは、やはり普通ではなかったのでしょうか。子どもを製造するための作業だと思いながら、互いに気乗りしないまま数年にわたり行われてきた行為は、普通の夫婦ではあり得ないものなのでしょうか。わたしたちは、行為そのものを欲しているわけではないようなのです。
聞いてみたいことはたくさんあったが、頭の中が散らかっていて、また、これは産婦人科の医師よりも心理カウンセラーに相談することのような気がして、うまく整理できない。隣に座る夫を見たが、彼もまたわたしを見て
「何か先生に聞いておくことない?」
と柔らかな口調と表情で言った。孤独だ、と思う。この人は本当に子どもが欲しくてここにいるのだろうか。
なんで質問するのがわたしだけの前提なの? あなたには何の疑問もないの?
例えば、全然乗り気じゃないのに、なんで自分は淡いピンク色の壁紙に囲まれたこの診察室にいるのでしょう、とか。妻がどうしてここまでして子どもをほしがっているのか、私にはまったく分からないのですが、どういう心境なんでしょう、とか。
夫に投げつけたい言葉のかけらもたくさんあった。でも、それさえも乾いた砂のようで、掴もうとするそばからこぼれ落ちてゆく。
その日、女医はいくつかの検査結果について、メモを交えながら説明した。彼女とわたしたちの間に置かれた広い机。その上に何枚かの結果報告書が置かれる。
理解できたことは、わたしたちは性感染症のキャリアではないということ、夫の精子の動きが今ひとつ良くないこと、そしてわたしの卵子のもとになる細胞の数は同じ年齢の女性に比べてやや少なく、それはつまり卵巣の年齢が実年齢より少し高めであるということだった。
「ご主人のこの数値だと、フーナーで何もなければ人工授精の適用かな」
フーナーテストなる検査の説明を受け、次回受診日を予約してわたしたちはクリニックを後にした。
メディカルビルのエレベーターホールは、土曜日ということもあってか照明が落とされている。建物の外に出ると、日差しがまぶしく、視界が暗くぼやけた。神宮の例大祭の白いのぼりがはためき、初夏の訪れを告げていた。
実年齢より老いた卵巣を持つ妻と、人柄がそのまま反映されたように精子の活性が低い夫。そもそものスタートからして、妊娠に向いていない夫婦だった。
子どもなんて、すぐにできると思っていた。
わたしの生理はきっちり26日周期でやってきて乱れることはなかったし、何より子どものことを意識しだした時、わたしたちはまだ20代。不妊の原因は男女半々にあり、加齢により妊娠しにくくなるという認知が進みだした頃だった。
凡庸な日本人として特別な苦労をすることなく生きてきたわたしも、凡庸な妊娠をし、凡庸な出産を経て、凡庸な子供を育て、凡庸に死んでいくのだろう。そう思って過ごしていた。しかし妊娠の兆候すらなく、いつしか30代に足を踏み入れていた。相変わらずわたしの子宮はせっせと着床の準備を整えては、26日ごとに排出するという不毛な営みを繰り返している。
不妊治療は、その不毛なサイクルに意味を与え、最大限活用するものだ。フーナーテストもそう。排卵のタイミングに合わせて性行為をし、数時間以内に膣内に残った精子の運動率を見る。運動率が低ければ、わたしの精子に対する抗体検査をして、子宮内に精子を直接注入する人工受精になるか、卵子と精子をガラス器具の中で受精させる体外受精になるかが決まる。
「今日さ、入れるところが違いますって言われたらどうする?」
フーナーテスト当日の朝、ネクタイを結びながらそんなことを夫が言い出したのは、彼なりの照れ隠しだったのかもしれない。わたしはこの検査のあらましを聞いたとき、もう恥ずかしがっている次元にはいられないのだ、と感じていた。
淡々とすべてを受け入れ、無感情にこなしていくしかない。夫婦の最も秘められるべき行為が、まだ数回しか会っていない医師に暴かれる。その不自然さにも目をつぶり、なんでもないことだと言い聞かせないと、自分の中の何かが壊れそうな気がした。
「言われるわけないじゃん」
と軽く流したが、本当に間違っていないと言い切れるだろうか。少なくともわたしは、「正しい」セックスの仕方を一度も教わったことがない、その事実に気がついてしまった。
挿入する場所が間違っていたのでできなかったんだと思いますよ。次からはこうしてみてくださいね。
こんな検査を受けるのだから、そんなふうに言ってもらえたら。少しでもそう願わなかったと言えば、嘘になる。
二 翳り
同じころ、前の年に結婚した同僚が妊娠した。小学校教員という、基本的には子どもが好きな人が就く仕事に従事しているわたしは、既婚で子どものいない同業者に出会ったことがなかった。みんな当たり前に妊娠し、出産して、夫婦から家族になっていく。
職員室で妊娠が発表されたとき、一気に空気が華やいでお祝いムードになる。女性の比率が高い職場だ。これから初産を迎える彼女に、先輩ママたちからたくさんの祝福の言葉とともに、経験談やアドバイスが贈られる。
子どものことを意識する前は、まったく気にならなかった恒例行事。それなのに今のわたしは、誰よりもその立場を欲しているくせに、わたしには無関係ですという顔をしてやりすごしている。次は自分の番だと思うには、妊娠しない期間が長すぎた。「わたしも子どもがほしいので、妊娠菌ください」とは言えなかった。
「今、すごい豪華な産婦人科とかあるんでしょ?」
「そうなんですー。そういうところで産みたくてぇ」
職員室の一角で女たちが妊娠・出産・子育ての話で盛り上がっている中、わたしはパソコンに向かって黙々と次週の時間割を作っていた。気がつけば、わたしのデスクの周りには、わたしと帰る準備をする再任用のおじいちゃんだけが取り残されていた。妊娠というイベントを中心に結束した女たちが辺りを照らせば照らすほど、自分がより生々しく翳っていく気がする。
廊下に出て、トイレに向かう。尿意を催したわけじゃない。職員室から出ていく口実が欲しかった。
気温が上がってくる季節であっても放課後の廊下はひんやりとしていて、西日がさしているにも関わらず薄暗い。子どもがいる時間帯はそこらじゅうから声が聞こえてきていて、校舎全体が「生きている」という感じがする。今、空気は押し黙って沈んでいる。唯一、女たちを除いて。
やや遅れておじいちゃんが「お先に失礼します」と言いながら職員室から出てくる。追いかけてくるのは、「お疲れさまでしたー!」という躍るように重なる声色。おじいちゃんは元校長先生で、もうそれなりに大きなお孫さんがいるということをわたしは知っていた。
「えぇっ?! 妊娠中ってお刺身とかお寿司食べちゃいけないんですか?」
まだ若い同僚の声が聞こえてきた。間髪入れず、「そうだよぉ」と盛り上がる女たち。
そうなんだ。わたしも知らなかった。
彼女は、間違いなく自分は照らす側にいると思っている。わたしも数年前まではそうだった。照らす側にいられるかどうかというのは、子どもの有無に関係ない。新たな命の誕生やその前ぶれに対し、一点の曇りもなく心から喜ばしく思い、その感情や感傷を共有できるかどうか、ただそれのみに尽きる。
不妊治療専門クリニックというものに足を踏み入れてしまったわたしには、自分が産むこと以外にそちら側に行く術はないように思われた。どんな顔で照らす側に混ざっていけばよいのかも分からなかったし、そちら側ですという顔をして女たちの輪の中に入ったところで、余計に自分の翳りが濃くなるような気がした。
廊下を歩いていると、数少ない男性教諭と教頭がベンチとタオルケットを運んでくるのが見えた。そういえば、と思う。職員室の中に、男たちが誰も残っていなかった。
今さらなんの役にも立たないだろうとわかっていて、思わず手を差し伸べる。
「どこに運びますか?」
「印刷室の隣の空き部屋です」
手は添えるだけ、の状態でいっぱしに力を貸した気になり、男たちとそんな会話をする。ベンチは保健室に置いてあった、座面がクッションになっていて簡易的なベッドとして使うこともできるものだった。
ああ、彼女のためのものだ。
その直感に、わたしは自分から行動したくせに手助けしたことを後悔し始めていた。どうしてわたしが、妊娠できないわたしが、苦労せず妊娠できた彼女のために働いているんだろう。
かといって離脱する勇気もなく、もと来た廊下を、ベンチを運びながら、否、手を添えながら戻っていく。目的の小部屋は職員室のちょうど真向かいにあった。
ベンチを置き、その上にタオルケットを広げて枕を置くと、その小部屋はもうそれだけでいっぱいになる。長らく閉めきられていたので、ほこりの土くさいようなにおいが満ちていた。教頭が窓を開けると、夕方の冷えた風が抜けた。
誰からともなく職員室に戻る。わたしもそのまま自席に戻り、仕事の続きに取り掛かろうとした。女たちはまだ妊娠中の禁忌の話題で盛り上がっている。その黄色い声を割り、男性にしては少し高めのトーンで教頭が渦中の彼女の名前を呼んだ。
「向かいの空き部屋に、休めるところ作りましたから。鍵、後で渡しますね」
「あっ、すみませーん。ありがとうございますぅ」
そのやりとりをきっかけに、女たちはそれぞれのデスクへ、あるいは教室へと帰ってゆく。教頭はわたしに満月のようなつるりとした顔を向け、「先生もありがとうございました」と言った。
自分への忠誠心に背いたような、そんな後ろめたさが心の中で渦巻いているのをわたしは感じていた。曖昧な笑顔をへばりつけて「大丈夫です」と返す。一体何が「大丈夫」だというのか。翳りの中にいるくせに、照らす側みたいな真似をした自分が嫌になりそうだった。
気分転換。
マグカップの底に薄く残った冷えた紅茶を淹れかえようと席を立ち、給湯コーナーへ向かう。ティーバッグをお湯に沈めお茶が出来上がるのを待っていると、背後から声をかけられた。
「あのー、先生ライブ好きだって聞いたんですけどぉ、ジョインアライブのチケットいりません? 妊娠したら行けなくなっちゃって」
「興味ありません」
言葉が終わるのとほぼ同時に放った返答は、自分でも思わず呆気に取られるほど、刺々しいものになる。しまった、と思った。でも、彼女は何事もなかったかのように「分かりましたぁ」と席に戻っていく。
余裕がある。わたしにはない、余裕。わたしの翳りになんて気がついていないという、余裕。
身動きが、できなくなる。
彼女が座った椅子の背もたれのリュックに、マタニティマークがぶら下がって揺れていた。
三 秋の果て
スタッドレスタイヤに交換したかどうかが話題にのぼり始める頃、夫の父が逝った。5回の人工受精でも成果が出ず、体外受精に切り替えるべく準備を進めている最中の出来事だった。
夫が喪主となって葬儀を行った。その一方で、わたしはわたしで採卵のための儀式を粛々と進めなくてはならなかった。
毎日お風呂上がりに自分でお腹の皮下脂肪をつまんで注射を打つ。病院で打たれる注射よりも針は短く細いけれど、刺さりどころによっては一気に赤黒いあざが広がる。わたしのおへその右側にはそうしたあざが重なり、不気味な模様を描いていた。
通常の生理周期では一つしか大きくならない卵子をいくつも育てるための儀式。不幸があっても卵巣は待ってくれない。通夜の後の寝ずの番の間にも、街灯に霜が光る道路を運転して自宅に戻り、注射をした。卵巣を過剰にはたらかせているため、下腹部が張る。鈍痛をなだめながら、枯れ枝のようになった義父を荼毘に付した。
翌日は、もともと受診日の予定だった。採卵ができる状態にあるか、エコーで診てもらう。
この日はわたし一人での受診となった。女医ともすっかり顔なじみとなっている。診察室に入ったとき真っ先に言われたのは、採卵できるかどうかではなく、
「今日ご主人はいらしてないんですね」
ということだった。
「身内に不幸がありまして。昨日葬儀だったんですけど、手続きがあるので役所に行ってます」
「近しい方?」
「義理の父です」
「あら、そう⋯⋯ご主人の。大変でしたね」
そんな言葉を交わしてから、卵子の育ち具合についての説明に入った。
わたしの卵巣だという白黒の画像をモニターで見せられる。画面の中に真っ黒な穴がいくつも空いていた。その穴のように見えるものが、卵子を包む卵胞なのだそうだ。まん丸の形のものもあれば、いびつなものもある。大きさもまちまちで、数えられるだけで10個はくだらない。虚空に向かって口を開けている、いくつもの暗い穴が命のもとだというのはなんだか奇妙な感じがした。
採卵は予定通り2日後の朝ということになった。
「採卵の日、ご主人がもし難しかったら後日でも大丈夫ですよ。たまごは凍結しておけるのでね」
診察室を出る前、そんなことを言われた。通常、採卵と受精は同じ日に行われる。
相談してみます、と返事をしながらもわたしは予定通りにことが進むことを願っていた。日程が後ろ倒しになるということは、その分だけわたしの若さが失われるということだ。いつだって、今日がいちばん若い。1日老いた分だけ、妊娠が遠のく気がしていた。
支払いをし、クリニックを後にする。エレベーターホールでコートを着てビルの外に出ると、冷たい風がむきだしの首筋にまとわりついた。
2日後、夫と連れ立って再びクリニックを訪れていた。秋の隙間に忍び込んでくる冬の気配は日に日に存在感を増し、わたしは薄手のウールのストールを巻いていた。
受付後すぐに事務スタッフに案内されて採精室へ向かう夫を見送る。父親を亡くして数日しか経っていない夫に自慰せよという妻に対して、彼は実際のところどう思っているのだろう。
数日前に女医から言われたことを、わたしは一応夫に伝えてはいた。でも彼は「別に大丈夫だよ」と言った。夫は治療に関して一切自分の意見を口にしない。人工受精から体外受精に切り替えたのも、わたしがそう決めたからだ。そこに夫の意思は介在していない。
わたしはそのことを不満に感じていたのだと思う。治療の話をするときにいつも夫と温度差がある気がして、彼は全然真剣じゃないと思っていた。
それでいてわたしは採精室がどこにあるのかを知らなかったし、どんな部屋なのかを聞いたこともなかった。妻が主体であるこの分野の医療において、妻には秘められていることもある。
妻が主体というのは、心持ちの問題ではない。不妊の原因は男女半々と言われる。それでも検査項目は妻の方が圧倒的に多いし、体を整えるのも、ホルモン剤を使用するのも妻である。「夫そのもの」はこの場には必要なく、精液さえあればいい。一度もクリニックを訪れたことのない夫もいると聞いた。そうした妻は、自宅で夫に託された精液入りカップを持参するのだという。
Twitterで不妊治療をしている妻たちと繋がり、情報交換をする中でそんな知識も増えた。繋がった中の誰かが妊娠報告をすると、そっと無言でブロックする。その一連の流れまで折り込み済みの、「不妊である」というただ一点のみを共有している関係。今日こそ誰かが妊娠してしまうのではないかとビクビクしながら過ごしつつも、青い鳥のアイコンをタップせずにはいられない。そんな不健康な日々を過ごしていた。
夫を見送ったあとわたしもすぐに看護師に呼ばれた。採血や注射の時に通される処置室の前を通り過ぎ、今まで入ったことのない突き当たりのドアの奥へ。すぐに「手術室」の表示が目に入った。採卵は、つまり手術なのだ。
手術室の前に並ぶドアの一つが開かれる。カーテンで窓が覆われた暗い小部屋。数日前まで機械に繋がれていた義父が寝ていたのとそっくりなベッドがあり、その上にきっちり畳まれた手術着が置かれていた。
着替えたら声をかけるようにと言って看護師は出て行った。わたしはTwitterに
「採卵いってきます」
とつぶやき、身支度をはじめる。大丈夫。義父が亡くなったばかりだ。きっと、わたしの子宮に、今度は夫の子どもとして戻ってくる。
その感傷の安っぽさに、このときのわたしは気がついていなかった。わたしは義父の死さえ、自分が妊娠するために用意された装置だと思っていたのだ。
四 朝まだき
初めての採卵で採れた卵子のうち、半数が受精には使えない変性卵子だった。年齢から考えても、明らかに割合が高い。女医はそういう周期だったのかも、と言ったが、わたしは自分の卵巣が実年齢より老いているという事実を思い出していた。
結局使える卵子は6個だけ。半数を体外受精に、もう半数を顕微受精にまわすことにした。
後日、電話で培養士から言われたのは、体外受精は受精の確認ができなかったということ。そして顕微受精の方は3つとも受精し、そのうちの2つの分裂が止まったということだった。
「残った胚は胚盤胞になるまで培養しますか? それとも今の段階で凍結しますか?」
受精後6日程度まで培養したものを、胚盤胞という。その方が妊娠率が高いと説明されていた。でも、13個採れた卵子のうち、受精後3日の現段階で一つしか生き残っていない。そのたった一つの生き残りが、あと3日間を生き延びるという保証はない。
一つでも戻せたら、妊娠するかもしれない。産めるかもしれない。凍結以外の選択肢はなかった。
その後も何度か採卵をした。相変わらず変性卵子の多さが際立った。卵巣の年齢だけでは説明のつかない割合。
通常の体外受精では一向に受精が成立しないので、この頃はすべて顕微受精にまわしていた。しかし、良好な胚が得られても、着床しない。
さらに詳しく検査したところ、免疫のバランスが悪いことがわかった。わたしの体は夫の遺伝子を含む胚を「異物」だと認識し、攻撃しているのだという。臓器や骨髄の移植を受けた人と同じ免疫抑制剤が処方されるようになった。
不可解な割合で変性卵子を生成する老いた卵巣に、受精障害に、着床障害。不妊因子の総合商社である。動きの鈍い精子など、今となっては問題ですらない。
初めての採卵から1年が経った。
わたしの診察券番号は511。気がつけばモニターに映し出される番号は4桁のものが目立つようになっていた。「二人目も頑張ります」と看護師や受付のお姉さんとの再会を喜ぶ患者の声が聞こえる。
停滞している。わたしだけが、宙に浮いている。
「妊娠してますよ」
診察室の中でその事実を告げられたとき、わたしは思いの外冷静だった。というより、「妊娠してないです」と言われるのに慣れすぎていて、受け止め方が分からなかった。
隣に座っている夫からも感情が読み取れないのは、彼も思いもよらない言葉に困惑していたからなのかもしれない。不妊治療に関して、初めて夫と心が通じ合った気がした。
「免疫のお薬飲んでいると、大学病院じゃないと産めないかもしれないのでね、ここ卒業するとき紹介状書きますね」
いっときはホテルのような産科に憧れたこともあった。今となっては自分の子が抱けるのならなんでもいい。まだエコーには何もうつらない。血液検査の数値だけでその存在が確認できる我が子を、どこで産むか。そんな話題が出てきてようやく、自分の話をされているのだという実感が湧いてきた。
その一方、無事に育つのか、産めるのか。嬉しさよりも不安の方が大きく、素直に喜べないわたしがいた。
その2週間後、わたしの子はわたしの子宮からも、血液検査の結果からも、最初から存在していなかったかのように消えた。
夜更かししてしまった日があったから。仕事を続けていたから。
まっすぐに喜びを伝えてあげられなかったから。不安ばかりを膨らませて、信頼してあげられなかったから。
女医は「初期の流産はお母さんのせいじゃない」と言った。それでも、どうしても自分自身に起因する理由を考えてしまう。
「流産しました」
仕事に行く気にならず、ベッドの上で寝転がりながらTwitterにつぶやいた。普段は反応なんてないのに、すぐさまリプライが飛んでくる。
「辛かったね。ベビたん、絶対また来てくれるよ」
「妊娠できるって分かっただけ良かったよー。私なんて、かすりもしないもん」
うるさいうるさいうるさい。わたしが流産したことが嬉しいくせに。自分より不幸な人間がいたって喜んでいるくせに。
子宮の中はもう空っぽなはずなのに、吐き気がこみ上げてくる。トイレに駆け込み、便器を抱えてえずいた。胃の中身は逆流せず、少量の唾液が糸をひいて水面に落ちた。
巡り合わせというものも、わたしの体も、わたしが母になることを全力で拒んでいる。
次の胚移植に向けて免疫の状態を再検査したところ、数値が悪化していた。胚への拒絶が強くなっている。服用する免疫抑制剤の量が増えた。
その矢先、コロナ禍がやってきて、免疫抑制剤を飲んでいると重症化しやすいという報道がされるようになった。感染症そのものよりも感染時の社会的制裁に怯えているうち、我が子を抱きたい気持ちは徐々にしぼんでいった。「まだ残っているから」という中途半端な気持ちで、凍結してある胚を消化試合のように移植し続ける。
わたしの子宮は、最後の胚も殺した。
「東京の病院に行く?」
社会の空気が緩みだした頃、夫にそんなことを言われたことがある。腕のいい培養士がいるのだという。
「行かない。もういい。子どもはいらない」
ずいぶんと幼稚な響きを伴っていることを自覚しながら、わたしはそう返した。夫は「わかったよ」と言う。あなたがそれでいいのなら、と。
どうして、いつもそうなのだろう。なんで自分も子どもが欲しいと思っているのなら、反論したり、「もう少し頑張ってよ」と言ったりしないのだろう。
本当はどう思っているのか、結局聞き出せないままになっている。
「あなたがもう治療しないって決めたならそうしよう」
夫はそう言い、夕食の献立は何がいいかを尋ねてきた。その表情には何の落胆も後悔も見えない。ただ、日常が続いていくだけだといわんばかりだ。
「スタッフが全員女性の不妊治療クリニックがある」とホームページを見つけてきたのは夫だった。採卵の日は、必ず仕事を休んで麻酔から醒めたばかりのわたしの手をひいて一緒に帰ってきてくれた。そうじゃない通院日も、予定を合わせて一緒に病院に来てくれていた。
自分に降りかかる出来事にただうろたえるだけのわたしの裏で、彼はいつも、わたしが納得いくように動いてくれていたのだ。わたしが、わたしなりの答えにたどり着けるよう、道を整備してくれていたのは夫だった。わたしの答えを受け入れるというのが、夫の覚悟なのかもしれない。
この人と、二人を生きていく。
乾いたセックスを繰り返したいくつもの夜も、奇跡みたいに子を宿していた日々も、二人で重ねた人生の一部として、いつかは穏やかに愛おしむことができるようになるのだろうか。近しい人の妊娠や出産に温かい眼差しを向け、翳りの中から出ていくことができるようになるのだろうか。
いつか眠りにつく、その日の夫とわたしに答え合わせをしてもらうべく、この散文にあの日々を留め置く。