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何でもない日の夕方

「おかえりぃ。お邪魔してますよ」

仕事を終えて家に帰ると祖父が来ていて、座椅子でくつろぎながら耳の遠い人特有のお腹の底から張るような声でそう言った。

普段電源が入ることのない五十型の液晶テレビが夕方のローカルワイド番組を写していて、モノトーンのインテリアでまとめている我が家のリビングにはありえない色が差していた。祖父の自宅では上の階にいても番組の内容がすべて分かるような音量で見ているはずのテレビは無音で、その代わり字幕が映し出されている。家で仕事をしている夫への配慮かと思ったけれど、夫は不在でリビングに隣接した作業部屋のモニターはどれも黒い画面のまま眠っていた。

パグ姉妹が帰宅したわたしにじゃれついてくるも、すぐにその関心は珍しい来客へと戻っていく。もねは祖父の膝の上へおさまってまるくなり、満足気なためいきをひとつついた。特等席を奪われたぷっかは座椅子の隣のソファーに跳び乗り、祖父の毛髪もまばらな頭をなめ始める。

「クロちゃん、ずっとこれなんだわ」

フォーンのもねをシロちゃん、黒パグのぷっかをクロちゃんと祖父は呼ぶ。飼い主が付けた名前を覚える気はさらさらないようで、でも九十を超えているから仕方ないと納得するより他ない。

「くさいからだよ。ぷっかはくさいのが好きだもん」

夫の耳の後ろを同じようになめていることや、排泄後のもねのおしりのにおいを執拗にかぎ続けていることは伝えなかった。知らせない優しさというものも、確実に存在すると思うから。

「母さんもそう言ってたんだ」

母さんというのは祖父の娘、つまりわたしの母親のこと。家の中のどこにも彼女の気配はなく、夫と買い物に行ったのだろうと見当をつける。

祖父は頭をなめられるままにし、ひざの上のもねに優しく手を置いた。もねはまたひとつ、ため息をついた。無音の空間に、頭髪ごと頭をなめる湿り気を帯びた「さり、そり、じゃり」という音と、パグ特有の大きめの鼻息だけが満ちている。

「何時についたの?」
「昼過ぎに母さんと来た」

そう、と返すとそれきり会話はなくなる。わたしは正直急な来客に戸惑いながら、晩ごはんになにを食べさせようか思案しはじめた。冷蔵庫にある食材と、今から買いに走って間に合いそうな食材とを頭の中でいろいろと組み合わせてみる。

というか、祖父が来ているのなら教えてくれたらいいのに。

LINEを確認してもその旨の連絡はなく、わたしは母と夫にそれぞれ「今どこにいるの?晩ごはんの買い物?」とメッセージを打った。同時に、祖父にも「みんなどこに行ったの?」と訊く。

「お姉ちゃんの好きなアイス、冷凍庫にあるよ」

わたしの質問に対する答えではない。戸惑っていると、「じい、さっき買いに行ってきたんだ。お姉ちゃんあれ、ほら、サイダーのアイス。好きだべさ」という。

ありがとう、と言いながら冷凍庫をあけると、子どもの頃に好きだったアイスが入っていた。今はもうない、棒が二本ついていて半分に分け合えるソーダ味の、淡い緑色のアイス。

成人していても、結婚して苗字が変わっても、中年になっても、家の外では「先生」と呼ばれていても、好きなアイスがハーゲンダッツのクリスピーサンドにグレードアップしていても、祖父にとってのわたしは変わらず初孫であり、三人姉弟のいちばん上の「お姉ちゃん」。そういうことなのだろう。

わたしはもう一度ありがとう、とつぶやき、「一緒に食べよう」と振り返った。

そこで目が覚めた。

何から何まで現実味があるのに、祖父だけがわたしの家にいる状況とか、終売になったアイスとか、振り返ったときに祖父がどうにもそこにいなかった気がすることとか、やっぱり夢は夢でしかない。

祖父は十月に大腿骨を骨折し、入院している。人工骨頭に置き換える大がかりなものになったそうで、年齢も確実に影響しているのだろうが、回復が思わしくない。手術前からなのか術後からなのか分からないが、血中酸素濃度が低く、ずっと酸素吸入をしている。食事もほとんど摂れていないという。最近では体温調節も上手く行かなくなってきたようで、頻繁に高熱を出している、というのは同居する伯母の話。

九十を超えてそろそろ百に到達しそうな人に、「元気になって欲しい」と思うのは身内のエゴかもしれない。赤の他人なら、「そこまで生きたなら大往生よ」と簡単に思えてしまう自分に気がついたので、やはりエゴなのだと思う。

これからどこまで回復するのか、しないのか、それさえ分からない。意識があるうちに、わたしが誰だか分かるうちに会いに行きたいとは思うものの、わたし自身も体調を崩しなかなか実現しない。

昨日、病院から「コロナが出たので当面面会はできない」という旨の連絡がきた。ままならぬものである。