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どの道嘘なんて書けねえよ

子供を下校させた後にあこさんの記事を読んで、小説家の嘘だとか本当のことだとか、それにまつわるよしなしごとに思いを馳せたくなり、定時で職場を退けてスタバに寄った。目的地も分からぬままノートにペンを走らせる。

結論から述べると、わたしはそれが小説であれエッセイであれ、人間の書くものに嘘なんてないんじゃないかと思っている。作家という一人の人間の消化管を通って世に放たれた言葉は、確実にその人の中で濾過されて存在することを許されたものだ。その人の経験なり思考なりが紛れもなく乗っかっていて、そうである以上、ここまでは本当、ここからは嘘、なんてそんなふうに綺麗に切り分けられるものではないように思える。
空の色を、猫の毛並みを、乗り気じゃない性行為を、ピアノの音を、そこの家の換気扇から漏れてくる魚を焼くにおいを、それらに揺さぶられる心をーーわたしたちはありとあらゆるものを描く。自分ではない誰かに託すことはあるけれど、これまで見聞きしたこと、感じたことをもとに描写しているのはわたしで、そうである以上「これは嘘ですよ」なんてことは言えないんじゃないか。
でも、これはわたしが何か創作をするときに「わたし」というものをどう表現するかを考えているからで、わたしにはどうやら物語として完璧な美しい「嘘」を書こうという気もなければ、自分を徹底的に殺して冷徹になろうという意気地もないらしい。今まで書いてきたわずかばかりの小説(らしきもの)は、どれも身に覚えのある感情、見覚えのある景色を描いている。想像の屋根を広げてその真下にあるものをすべて庇護しようという気概もなければ、その屋根を翼に変えてさらに高く飛び上がり、遠くまで見通すような才覚もない。わたしの小説に出てくる人物は、どこまでも限りなく複製の「めぐみティコ」にすぎず、言うなれば私小説なのだ。
そういう意味では、わたしとあこさんの書きたいものは真逆なのかもしれない。わたしは目に見えるものだけを軽くなぞったものだろうが、自己の内面を深く掘り下げたものであろうが、区別することなく「これがわたしの本当のことでございます」というつもりで世に放っている。

いい子でいようとか、みんなに好かれようとか、そういう思惑はとうに捨てた。そういう文章にわたしは惹かれない。書こうとも思わない。
歪みを抱えながら、それでもなんとか生きのびようともがく姿をわたしは描きたいし、自分の中に取り込むものもそういうもののほうがいい。全然噛みきれなくて飲み込むことが難しく、やっとの思いで嚥下したとしても、奥歯にいつまでも取れないスジが引っかかるようなもの。
世の中には誰もに受け入れられるような、圧倒的に「正しい」んだろうなってことを言う人たちが少なからずいて、それなりに支持を集めている。でも、彼らが「文学」だった試しがある?
一線を超えた先でしか誰かの心に残ることはなくて、誰かの心に残るということはその人の内側を抉ったり削ったりして「わたし」が居座っているということだ。わたしは書くことにおいてそうありたいと願っていて、いい子にそういう図々しいことはできない。
「嫌われても構わない。なんなら傷つけることも厭わない」と思っていることも、肯定せざるを得ない。

わたしが傷つけたくなかった人は、夫ただ一人だけ。
彼がわたしの書いたものを読んで苦しまないのなら、それでよかった。
実母も義母も義妹も同僚も、その他数多の「母親」たちも、傷つこうが嫌な気持ちになろうが、わたしにとってはどうでもよかった。
そんな気持ちでいないと、『わたしの子宮は胎児を殺す。』を書き上げることはできなかった。
実際、わたしのフォロワーには誰かの親という立場の人がたくさんいて、彼らの反応を想像して「傷つけるかな」「こんな真っ黒い気持ちを持ってる不妊女って知られたら嫌われるかな」と思っているうちは、全く書き進めることができなかった。「自分の書いたものが誰かを傷つけるかもって思ったらどうしますか」と勝手にメンターだと思っている人に泣きついたこともある。
全部あのタイミングで書こうと思い、周りの人にも恵まれたから書けたものだと思っている。何か一つでも欠けていたら、わたしはあのエッセイを書きあげられなかったし、書こうという気持ちにもならなかっただろう。
結果は伴わなかったけど、あの作品をリリースしてからわたしの中で「作品で傷つけること」「自分を曝け出すこと」に対する見方や捉え方がガラリと変わった。図々しくなった。「嫌なら読むなよ」と堂々と言えるようになった。だって、これがわたしなんだから。あなたを傷つけようと思って書いているわけじゃない。でも結果としてそうなったのなら、残念だけど縁がなかった。傷つけてごめんね、なんて謝る気もない。
今さら、「子供は産めなかったけど世の中のすべてのパパ・ママの幸せを願っていまぁす♡  わたしはみんな幸せになってほしいから、なんでも協力したいと思っているよ♡♡」なんて書けやしない。「正しさ」で言えば、人としてこれ以上ないほどの「正しさ」なんだと思う。でも、これはわたしにとっての「本当のこと」ではない。純度百パーセントの嘘だ。そんな人物は、わたしの小説の中にもきっと、未来永劫登場しない。

わたしの人生はあまりに上手くいきすぎていて、書くネタなんて正直、ない。そう思っていた。
思春期特有の不幸になりたがり思考、嗜みとしてのリストカット、ビッチ志向を卒業して、まともに税金を納めるようになってからはぱったりと書かなくなった。書く必要がなくなった。
でも、元が作家志望というヤクザな性分のせいか、書くことは三十代といういい大人になったわたしにちゃーんと書くための素材を準備してくれた。
「ダブルチーズバーガーとチキンナゲット、マスタードソースで」と言うのと同程度のカジュアルさで「卵子の質が」「精子の動きが」なんて言っていたあの数年間で、一生分の鬱屈と歪みを手に入れたと思っている。そしてそれは、今なおちょっとしたきっかけでまた積み重なり、ブクブクと肥え続けている。
その鬱屈と歪みって素材を、どう調理して提供するか、それがこれからのわたしに課せられた使命なのだろう。
この素材というのがなかなかのクセ者で、自分自身の身体を切り刻んでカニバリズムさせようとしてくるのだから、痛まないわけがないのだ。
でも、これは書くことから与えられたものだから、どうせなら使い切ってから死ぬつもりである。