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『祈りの鍵』

2025年1月19日

 先週は三男の成人式があったため、残念ですがバイブルクラスをお休みとさせていただきました。
成人式では多少、やんちゃな子たちもいますが各々が晴れ晴れしい顔をしていて新鮮な気持ちにさせられました。新しくスタートに立つすべての人に主が祝福をもって道を開いてくださるように祈ります。

さて、今日もルカによる福音書から「主の祈り」といわれるところの話をさせていただきます。私も子どもの頃に教会学校でこの難しい言い回しの祈りの言葉を暗記させられました。
この話ではキリストに着いて来ていた弟子たちのひとりがバプテスマのヨハネが自分の弟子たちに祈りを教えたように私たちにも祈りを教えてほしいと言い出します。このヨハネが教えた祈りというのは聖書にも書いてないのでどのようなものなのか具体的にはわかりませんが、恐らく悔い改めの祈りだったのではないかと思います。

■ルカ11:1~13
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。

『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

祈りを教えてほしいと言うのは私たちにとっては自然かもしれませんが、ユダヤ人の彼らにとっては不思議な質問です。ユダヤ人は普段から祈る習慣があったからです。周りのほかの弟子たちは「いやいや、何を言い出すんだオマエ、そんなのふつうに祈ったらええやん。」と思ったかもしれません。
確かに私たちも普段、祈るときに「主の祈り」をそのまま祈りとして捧げることをしないですし、もっと言ってしまえば「主の祈り」をほとんど意識せずに祈っているんじゃないかと思ってしまいます。
では、「主の祈り」とは何なのでしょうか。

皆さんも自分の祈りを思い起こしながら考えてみてください。


【まとめ】

キリストの時代、神は長く沈黙されていた時代でユダヤ人に語りかけられることは稀でした。それは神殿で仕える祭司ザカリヤが聖所で天使があらわれた時に恐怖の念に襲われるほどでした。(ルカ1:11)ザカリヤは香をたく務めのため聖所に入りましたが、その香壇は「祈り」を示すものです。天使が立ったのも香壇の右であり、そこでザカリヤに語りかけられたのです。ザカリヤにとって想定外のできごとでした。
ですから、ザカリヤの態度にも表れているように彼らユダヤ人の祈りは当時、一方的でしかなかったのです。

この祈りを教えてほしいと言った弟子はキリストと行動を供にし、時に福音伝道に遣わされるなかで祈りに対しての神の応答を求めるに至ったのではないでしょうか。ここにはキリストの弟子としての成長がよく映し出されているように思えます。
「主の祈り」の内容を見ていくときに、彼らがキリストによって訓練されて福音伝道のために派遣された時の教えの集大成とも言えるものになっていないでしょうか。「主の祈り」はクリスチャン信仰の告白でキリストに従い遣わされた者の祈りです。さらには、前回、「キリストの言葉を聞く」という話をさせていただきましたが、このキリストに仕える者には神の御旨を知るということが必要不可欠なのです。そして、もっと突っ込んで言えば、神と会話するということの鍵としてこの仕える姿勢の「主の祈り」があると私は考えます。

そして、キリストは祈りに続く話として少し変な例え話をされています。一見、しつこく願い求める者の祈りは何でも叶えられるというような内容ですが、最後はなぜか「聖霊が与えられる」という話になってしまっています。この例え話も意味不明な部分で面白いですよね。
しかし、前述したようにこの話が「祈りの願い」ではなく「祈りの応答」に焦点が当てられていると認識して、もう一度、この箇所を読んでみてください。霧が晴れるように感じられるのではないでしょうか。

■エレミヤ29:12~14
そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。

主と会話するように祈ることができるというのは、すべてのクリスチャンはの理想だと思います。
ルカによる福音書は時系列で起こったことが記されているといわれていますが、この福音書にはクリスチャンの成長が意図されたように克明に明示されているような気がします。ルカは第2巻として使途言行録を記していますがそこでも聖霊によるクリスチャンの働きがどのように広がっていったかが記されています。
それは彼らが心を尽くして主を求めたときに、主は聖霊を通して彼らに会い語られるようになったからです。
もう一度、自身の告白として「主の祈り」を読み返して聖霊を求めてください。

■1コリント2:10~13
わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。

聖霊を求めるクリスチャンの新しい道が祝福されますように祈ります。

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皆さんの働きが祝福されますように。