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『暗闇に住む民を照らす光』

2024年7月21日

 先週は駒込の中央聖書教会に出席させていただいたのでバイブルクラスをお休みとさせていただきました。その際、礼拝ではTICA(Tsukuba International Christian Assembly)に10年前に来られた関本英樹宣教師がフィリピンでの宣教を交えて礼拝のメッセージを語られました。私のことまで覚えていてくださって本当に有意義で恵み深い時間を過ごさせていただきました。フィリピンの宣教が祝福されてすべての必要が満たされ、その道が守られますように。

さて、今日はキリストが荒野の誘惑を受けた後、ガリラヤで活動をはじめられたところをお話しさせていただきます。
ガリラヤ地方はイスラエル北部に位置していて国内最大の淡水湖であるガリラヤ湖があります。ヘルモン山の雪解け水、ゴラン高原の水源から水が流れ込みイスラエルにとって貴重な水瓶として利用されています。湖の形が竪琴の形に似ていることから旧約聖書ではキネレト湖(民数記34:11)として出てきます。

ガリラヤ湖

ガリラヤ湖付近はキリスト時代にはヨーロッパと北アフリカ(エジプトなど)を結ぶ街道沿いに街は整備されていました。それだけに異邦人も多く住んでおりガリラヤの地域はユダヤ人と異邦人の混血も多く、そこに住む人々は蔑みの目で見られていたのです。

■ルカ4:16~30
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

ユダヤ人会堂(シナゴーグ)に入ったキリストはイザヤ書を朗読して恵み深い語りように称賛を受けるのですが、余計な事を言って、逆に怒りを買い殺されそうになってしまうのです。この話はルカによる福音書にしか記されていないのですが、今ひとつ解らないのが「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」という部分、ルカによる福音書ではカファルナウムでキリストが宣教の活動をして病人を癒したりするのはこの後の話で、この時点ではまだ起こっていないのではないかという疑問があるのです。ですから、この部分は未来形でキリストが言われている可能性があるということです。
それから、シナゴーグにいたユダヤ人たちが憤慨したというのはわかりますが、そんな殺そうとするほどであったのかというのが引っ掛かります。

皆さんはどう思われるでしょうか。


【まとめ】


ガリラヤ地方についてもう少しお話しさせていただきます。
旧約聖書のソロモン王の統治後、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に分断されてしまいました。ガリラヤ地方は北部にあったためサマリヤとともに北イスラエル王国に属していました。ガリラヤは古くから貿易の街道が通っており、水資源もあって魚が獲れ、南部ではオリーブや穀物を産出したため豊かでした。ちなみに同じ北イスラエルに属するサマリヤも非常に肥沃な土地であったため、北イスラエル王国は経済的に恵まれていたのです。
それだけに異邦人の流入も多く、混血は増えて、エルサレムを中心とした南ユダ王国のユダヤ人からは複雑な感情も絡んで嫌われていました。
マタイによる福音書ではイザヤ書9章を引用してこう記しています。

■マタイ4:14~15
ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった。

ガリラヤの会堂にいたユダヤ人にとって「異邦人」は異常にシビアな問題だったのではないかと推測します。ガリラヤはエルサレムのユダヤ人たちから蔑視の対象になっていたため、自分たちは異邦人とは違うんだという意識があったのではないでしょうか。

そこにキリストはエリヤを引き合いにサレプタのやもめとシリア人ナアマンの話をしたのです。
このバイブルクラスでも話をさせていただきましたが、過ぎ越しの祭の食事ではひとつ空席が用意する習わしがあります。それは預言者エリヤのための席で「エリヤは来たか?」と食事の際に確認することになっていました。預言者エリヤはメシア(救い主)の象徴だったのです。
そのエリヤは北イスラエル王国でアハブが王となり神に背いてバアルを拝んだ際に唯ひとり、正しい預言者として働きました。雨が降らず食べ物に窮した時にエリヤを助けたのはイスラエル人ではなく、異邦人であったシドン人の貧しいやもめだったのです。(列王記上17:1~24)
エリシャはエリヤから預言者を引き継いだ人でした。当時、北イスラエルの敵であったアラム国の軍司令官ナアマンは重い皮膚病に悩まされていて、見かねたアラム王は敵国であったイスラエルへ助けを求めて手紙を送ります。手紙を受け取ったイスラエルの王は無理難題を押し付けてこちらを攻めようとしていると怒るのですが、預言エリシャがナアマンの清めを助けます。当時のイスラエルは神を信じなかったのです。(列王記下5:1~19)
キリストはこの話を通して神と正しく向き合おうとしなかったユダヤ人を責めたのです。

もうひとつ、キリストが未来形で語られた可能性がある部分で「医者よ、自分自身を治せ」ということわざですが、キリストが十字架につけられた時にユダヤ人たちが言った言葉があります。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(ルカ23:35)
そうすると、「自分の故郷では歓迎されない」という言葉にも2重の意味があるように思えてきます。ヨハネによる福音書には「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。」(ヨハネ1:11)とあります。ですから、これはナザレで受け入れられなかったということと、キリストがいるべきところに来たのにユダヤ人は受け入れず、彼らが蔑視していた異邦人がキリストを受け入れることになったことを示していて、キリストの十字架によってキリストが大祭司となり、民族の枠を越えてキリストを信じる者が祭司の務めを担うようになることをも示しているように思います。

暗闇に住んでいた私たち異邦人を光が照らすようになったのです。しかし、それだけではなく、神の愛に立って務めを成す者とされているのです。

■エペソ3:17
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。