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『深淵の底も御手の内にあり』

2024年11月10日

 アメリカ大統領選が決着しましたね。
これでこの先の世界の情勢はまったく見通しが効かなくなったと思う人も多くおられるのではないでしょうか。私は今、神さまが人の世界を試されているような気がします。誰もが望む平和で正義と公正の満ちた世界、それが人の政治、法律、モラル、価値観、物差しで実現できるのかが問われているような気がしてなりません。人が自らを頼りとするとき、神は最も大事なことを人が悟り得るまで黙って忍耐され、待っておられるのではないでしょうか。

さて、今日もルカによる福音書からヤイロの娘と12年間も長血を患った女性の話をさせていただきます。
この話では2つの別々な問題が同時進行しています。ただ、状況的にそうなっただけかもしれませんが私は何かしら関係があるのではないかと考えてみました。

■ルカ8:40~56
イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

この長血の病は女性の生理現象で血が止まらないという症状で、律法によるとこの期間は汚れているとみなされていました。(レビ記15:19~31)ですから、本来、人に触れることが禁じられていて黙って群衆にまぎれてはならなかったのです。まして神の預言者と思われる人に触れるという行為は死を意味していたのではないでしょうか。対してヤイロの娘の話ですが、話の流れのなかですでに死んでしまったとの知らせを受けます。
そこから、この出来事はどうして重ねられたのかということを考えてみました。

皆さんはこのところから何を考えるでしょうか。


【まとめ】

長血を患った女性についてマルコによる福音書は多くの医者にかかってひどく苦しめられたあげく全財産を使い果たしたと書いています。(マルコ5:26)律法において汚れた者と見なされていた彼女は恐らく医者にまともに診てもらえずひどい扱いを受けたのではないかと想像します。汚れが終わらない彼女にとって当時のユダヤ人社会に生きる場所はなかったのです。
彼女はキリストの服の房に触れたとあります。ここに彼女の思いのすべてが込められているように私は思います。ユダヤ人男性は服の四隅にロープ状の房(ツィツィート:ציצת)をつけていました。その房と結び目と糸の数は613を数え、神からいただいた律法の数を示すものでした。(民数記15:38~40)

どうして、彼女はキリストのその房にわざわざ触れたのでしょうか。
そこには絶望のなかにある彼女が自分の命をかけて神への訴えかけがあったのだと私は思います。
「もし、神が自分のようなものを顧みられるなら癒してもらえるかもしれない。でも、もしそうでないなら神が自分を罰して殺されるだろうが、神にとって自分が価値のないということならもうそれでいい。」
聖書に彼女の心情は書いてないのでわかりませんが、追い詰められた彼女にしか理解し難い心情があったのではないかと思います。

彼女が房に触れた時、神は真っ直ぐな信仰に応えられ不治と思われていた病が癒されます。その時にキリストは「わたしから力が出て行った」と言ったのです。彼女を癒したのは房に象徴される律法ではなく、キリストとともに神がおられることを知って非常に恐れたのです。

一方、ヤイロの娘の方ですが長血の女性が癒されるできごとがあったためか、娘が亡くなったことが告げられます。
ヤイロという人はカファルナウムでユダヤ人会堂(シナゴーグ)の管理をしていた人だったと考えられています。何度かキリストがこの会堂に出入りする内にキリストをある程度、信頼するようになっていたのではないかと思われますが、この時、ヤイロがどこまでキリストを受け入れていたのかはわかりません。
以前、ローマの百人隊長の部下の癒しの話がありましたが、あの時、カファルナウムのユダヤ人長老たちが癒しの懇願をしにキリストの元にやってきました。そこにヤイロが含まれていたかはわかりませんが、この出来事をかなり近いところで聞いていたのではないかと考えます。それでも、自分の娘が危篤の状態になるまでキリストを頼らなかったのは彼の会堂長としての立場が躊躇させていたのかもしれません。結果として娘は死んでしまいヤイロは絶望に追いやられることになりました。

しかし、キリストは「眠っているのだ」と言い、家を訪ねて娘に「娘よ、起きなさい」と呼びかけたところ娘は生き返ったのです。
ここでも律法において遺体に触れることは汚れるとされていたのですがキリストは娘に触れたのです。律法においては汚れた者が神に受け入れられることはあり得ません。(民数記19:11~13)
ですから、キリストが律法の下にある預言者だったとしたら人が生き返らせることはできない筈なのです。ユダヤ人会堂の会堂長であるヤイロは十分すぎるほどそれを理解していただろうと思います。

ヤイロという名前には「起き上がる」という意味があり、そこに「目を覚まさせる」という意味も含まれるそうです。この話は娘を通したヤイロへの語りかけであることがわかると思います。

■詩編121:1~2
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る天地を造られた主のもとから。

私たちの助けはどこから来るのでしょうか、目の前にそびえ、偉大に見える山からなのでしょうか。
そうではなく、地の基を据えられた主から来るのです。

長血を患った女性もヤイロも人が考え得る限りにおいて絶望の淵に立たされていて、そのなかで唯一、信頼すべき神に助けを呼び求めたのです。
最も大切なことはすべての状況を覆すことのできるキリストだけが望みだと知ることです。

■詩編95:3~7
主は大いなる神
すべての神を超えて大いなる王。
深い地の底も御手の内にあり山々の頂も主のもの。
海も主のもの、それを造られたのは主。
陸もまた、御手によって形づくられた。
わたしたちを造られた方主の御前にひざまずこう。
共にひれ伏し、伏し拝もう。
主はわたしたちの神、わたしたちは主の民
主に養われる群れ、御手の内にある羊。
今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。


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