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『わたしの心だ、清くなれ』

2024年8月4日

 パリオリンピックが真っ盛りで夜更かしされている方もおられるのではないかと思いますが、暑い時期は何かと体力を奪われるので皆さん、体調にはお気をつけください。
そのオリンピックの開幕式に最後の晩餐をモチーフにした演出があって、キリスト教を冒涜したとやらで演出家が批判されているというニュースが目につきました。最後の晩餐もオリンピックの演出も個人の表現でしかないのに何をそんなに気にするのか理解できません。そこでちょっと気づいたのですが、最近の国内外のニュースを見ると批判ばかりが目立つような気がします。人の口というのは批判的な言葉が出やすいものかもしれないですね。

さて、今日はルカによる福音書から重い皮膚病(ツァラアト)にかかった人をキリストが清めるところからお話しさせていただきたいと思います。

■ルカ5:12~15
イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。

この重い皮膚病、昔は「らい病」と訳されてハンセン病と考えられてきましたが、どうも違うようなので最近の訳では重い皮膚病(ツァラアト)と表記されていますが正体はわかっていないようです。この重い皮膚病、感染力は弱いものの伝染性を持っており一般的には不治の病と認識され恐れられていました。
当時、ユダヤ人たちはツァラアトを病気ではなく、人の内にある内面的腐敗が外側に症状として表われたものだと信じていたようです。興味深いことにユダヤ教でツァラアトは悪口や誹謗中傷する行為と関連付けられていたそうで、その罪に対しての結果が症状としてあらわれたものと捉えられていたようです。

出エジプトの時代にモーセの姉ミリアムが特別な預言者として扱われるモーセを非難した時、神の怒りによって彼女はツァラアトに冒されてしまいました。(民数記12:2~16)ミリアムはモーセを非難するのにアロンまで巻き込んでいます。何かと罪の方向に巻き込まれがちなアロンですが、意志がちょっと弱いタイプだったのかもしれないですね。このあたりも感染性の病と似たようなところなのかもしれません。

このルカによる福音書のツァラアトに冒された人はどういう人物か書かれていないのでなにもわかりません。キリストはこの人を癒しましたが、「だれにも話してはいけない」と厳命しています。結果的にはキリストのうわさが広まったとあるので、この人はきっと黙っていることができなかったと想像つくと思います。
ではなぜ、キリストはそのように厳しく言ったのでしょうか。

この部分、いろいろと解釈がわかれるところなのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。


【まとめ】


数年前からコロナに振り回されて、まだまだ影響は残るものの落ち着きを取り戻してきてはいますが、誰もが伝染性の病原菌の怖さを経験しました。現代の私たちでもそうなのですから、医学がまだこれほど発展していなかった時代の人の恐怖ははかり知れません。でも、聖書にはモーセの時代からツァラアトに関してレビ記で詳細に記されているのです。症状や経過の見分け方、衣服や持ち物の処分、隔離の期間、回復時の定めなどが事細かく指示されているというのは驚きです。(レビ記13:1~14:32)

そこから、キリストに清められたこの人は正しい行動をしなかったことがわかります。レビ記によると回復した場合、祭司に体を見せて7日間、隔離された後に清いと判断されて、賠償の献げ物をしなければなりませんでした。ところが、この人は恐らく献げ物をしないばかりか、祭司のところにも行かなかったのではないかと思われます。もし、キリストの言われたとおりにしていたら、この町に滞在する間に人々がうわさを聞いて集まってくることはなかっただろうと思います。ですから、キリストは「だれにも話してはいけない」と厳しく言ったのではないでしょうか。

もうひとつ、レビ記ではツァラアトからの回復時には賠償の献げ物をするように定めています。

■レビ14:10~12
八日目に、彼は無傷の雄羊二匹、無傷の一歳の雌羊一匹、オリーブ油を混ぜた十分の三エファの上等の小麦粉の献げ物、一ログのオリーブ油を調える。清めの儀式を執行する祭司は、その儀式にあずかる者にこれらの献げ物を持たせ、臨在の幕屋の入り口の主の御前に立たせる。祭司は雄羊の一匹を取り、それを一ログのオリーブ油と共に、賠償の献げ物としてささげ、主の御前に奉納物とする。

賠償の献げ物は贖罪の献げ物と同じ罪過に対しての献げ物なのです。つまり、このツァラアトの冒された人は本当に罪人であったことを示しています。そして、彼は回復しましたが悔い改めることをしませんでした。
(※ツァラアトや伝染病が罪の結果だと決めつける訳ではありません。)

先に説明したようにツァラアトは不治の病で一部の例外を除いて、ほとんど完治した事例がないといわれています。それなのにレビ記には克明に癒された場合に行う献げ物の方法が記されているのは不思議です。なので、レビ記のこの箇所は単純にツァラアトの回復についてのみ書かれているのではないような気がします。

レビ記によると清められたかどうかの判断は祭司が行うことになっていました。

■レビ記13:12~13
もし、この皮膚病が皮膚に生じていて、祭司が見るかぎり、頭から足の先まで患者の全身を覆っているようならば、祭司はそれを調べ、確かに全身を覆っているならば、「患者は清い」と言い渡す。全身が白くなっていれば、その人は清いのである。

ここを読んでいくと清めの判断は祭司以外には難しいことがわかります。一般の人にしてみれば、どうあっても汚れているとしか見えないのです。これは罪に対しての悔い改めに通じるものなのかもしれません。

■1サムエル16:7
人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。

私たちはキリストによって祭司としての務めを担っています。人の内の悔い改めの思いを見逃すことなく、キリストの前に多くの人の清めを宣言していきたいと願います。

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